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「五族協和」に命を懸けた小澤俊夫・征爾・幹雄兄弟の父

小澤開作と満洲事変・日中戦争(1)少年時代の苦労と五族協和の夢

小澤俊夫
小澤昔ばなし研究所所長/筑波大学名誉教授
情報・テキスト
北京時代の小澤開作一家
小澤開作は、彫刻家の小澤克己氏、口承文芸学者の小澤俊夫氏、指揮者の小澤征爾氏、俳優でエッセイストの小澤幹雄氏の四兄弟の父だが、実は満洲事変当時、満洲在住の日本人として「五族協和」の実現のために奮闘し、さらに日中戦争期には「日中友好」実現のためにすべてを懸けて活動した人物であった。小澤開作の行動と考えを見ていくと、昭和の日本人が何を考えていたのか、また、昭和史の真実とは何かが見えてくる。第1話は、山梨に生まれた小澤開作の「原点」を探る。「五族協和」への夢の原点には、皆で助け合わねば何もできないという「結」の考え方があった(全10話中第1話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)
時間:13:33
収録日:2019/10/09
追加日:2020/09/14
≪全文≫

●小澤征爾の名前の由来は「板垣征四郎と石原莞爾」


―― 皆さま、こんにちは。本日は小澤俊夫先生に、小澤開作さんについてお話しいただく番組ということで進めてまいりたいと思います。小澤俊夫先生、どうぞよろしくお願いいたします。

小澤 どうぞよろしくお願いいたします。

―― 小澤開作さんというと、あまりご存じない方も多いかもしれないのですけれども。

小澤 ええ。もちろん。

―― (小澤開作さんは)小澤俊夫先生、それから(指揮者の)小澤征爾さんですね、それから(俳優でエッセイストの)小澤幹雄さんのお父上でいらっしゃって。それから、小澤征爾さんのお名前の由来でよく言われることがあると思うのですけれども。実は小澤征爾さんの「征爾」という名は、満洲事変のときの(関東軍高級参謀)板垣征四郎さんの「征」と、(関東軍作戦主任参謀)石原莞爾さんの「爾」、この2つの字を取って、征爾さんと名付けられたというエピソードが、よく指摘されますね。

小澤 そうなんです。僕もそう聞いてますよ。なんか親父はね、とても石原莞爾さんと板垣征四郎さんを尊敬していたし、波長が合ったみたいですね。とくに「民族協和」「五族協和」という思想についてはね。そういうことで、とても親しくしていただいたみたい。

 ある時、3人が会って、話をしていたのか、飲んでいたのか、なにか知りませんが、そのときに三男坊が生まれたという知らせが入ってね、その場で名前を付けたという話です。うちの父親が「征爾」と名前を付けさせてもらいたいと言ったら、板垣征四郎さんが、「いや、石原のほうが偉いんだから『爾征』としろ」と言ったと。「爾征」じゃ名前にならないんじゃないですかと言って、「征爾」になったという話を親父から聞きましたけどね(笑)。

―― そのエピソードに象徴されるように、ちょうど満洲事変のときに満洲にいらっしゃって、現地の日本人の若手のリーダーとして頑張られた。そして「五族協和」を夢見て、活躍された。その後、中国の北京に行かれて、今度は日中友好のために粉骨砕身、ご努力をされたという方でいらっしゃるということで。ここの経緯について今日はぜひお話をうかがえればと思っております。

 ちょうど実は、2019年が小澤開作さんの50回忌ということで、先日、山梨県でその会があって、私もそのときちょっとお邪魔をさせていただいたのですが。

小澤 どうもありがとうございました。

―― いえいえ。ありがとうございます。いま、地元でも顕彰会ができて。

小澤 そうみたいですね。亡くなって50年だそうです。だそうですという意味は、僕は49年だと思っていたら、仏教では1年先に考えるということでね、50回忌ということです。親父の小説が出たんですよね。『満州ラプソディ』というのかな。

―― 江宮隆之先生がお書きになった。

小澤 そうそう。それをきっかけに地元の方々が、「そんな奴がいたなら」ということで、小澤開作顕彰会というものを作ってくださってね。その方々が中心で50回忌をやろうということになったものですからね。僕らもお墓参りに行きたいと思っていたものですから、合体させていただいて、お墓参りと記念の会をさせていただいたんですね。


●2年連続の大洪水と、培われた「結」の思想


―― ちょうど山梨県の、かつて高田村と呼ばれたところですね。いまは三郷町でございましたか。

小澤 そうですね。市川三郷と名前が変わったんですね。

―― 市川三郷町というところですね。小澤開作さんがお生まれになったのが明治31年(1898年)ですので、ちょうど日清戦争も終わって、日露戦争との間というところですね。

小澤 そうです。その間です、生まれたのはね。そして、明治40年、41年に大洪水があったんですよね、富士川のね。それで、田畑は全部流されて、村が貧しくなったんですね。ちょうどその頃、親父は10歳ぐらいなわけですよ。ですから、うんと働かされて、一所懸命働いたみたいですねえ。

―― 相当、あの洪水は大変だったようですね。

小澤 大変だった。2年続けてだといいますからね。親父の親父という人が消防組頭をしていたらしいんですね。それで若い者をみんな連れて、防波堤を作るために、杭を打ったりしなければいけない。そのとき、川がもう濁流が流れている中で、最初に杭を打つというのが一番難しいんですってね。そのときに(開作の)親父がね、「ケエサク、行けー!」と言ったというんですよ。開作が田舎の言葉で「ケエサク」ね。「ケエサク、行けー!」と言ったと。それで10歳か11歳の親父が川に飛び込んで、それで杭にしがみついてね。それをおじさんたちが打って、杭を打ち込んだというんですね。その話はよく聞かされました。必死だったと思うなあ。

―― そうですよね。いまなら「子供にそんなことをやらせるなん...
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