●小林秀雄をいきなりぶん殴った話
―― 先生の『ときを紡ぐ』(小澤昔ばなし研究所)という本でも書かれていますけれども、あれは『華北評論』をやられてからですか、たとえば小林秀雄さんとか、色々な交流がおありだったようですね。
小澤 そうそう。それは小林さんたちが家へ来たのは、僕らが日本に帰ってから。だから昭和16年から18年の間ですね。小林秀雄と林房雄が従軍記者として派遣されてきたんですね。それで家へ来たらしいんですよ。家に相当長くいたんじゃないかな。それで、みんな酒が好きだから気が合ったみたいですけどね。
―― これも有名な、以前にお聞きした話ですけれど、壺を割って、けんかになった話というのが……。
小澤 あれね、割ってはいないと思うよ、たぶん。うちの応接間に壺があったの、よく覚えてるんです、僕も。大きな壺。それを小林さんが、「これは偽物だ」と言ったらしいんだな。そしたら親父は怒ってね、「偽物であっても、これを作った人にとってはかけがえのない作品だ。そういう意味で価値があるんだ」と言ったらね。小林さんは、彼は芸術家だから、「そういう問題じゃない。芸術品としての価値を考えれば、こんなものは偽物だ、駄作だ」と言った。それでぶん殴っちゃったらしい(笑)。本当にぶん殴ったんだって。
僕らがいないから、僕のいとこが親父の世話をしていたんだよね。高橋司典というんだけど、目の前で給仕してたからね、目の前で見たって。いきなりぶん殴ったって(笑)。
―― すごい直情径行の。
小澤 そうそう。林房雄もそばにいたんですけどね。でもね、小林さんとは、そういう意味では、気は合ったみたいね。その芸術品の話はダメだったけど(笑)。
日本へ帰ってきて本当に貧しくなって、親父はミシン会社をつくったんですよ。それも倒産するんですけどね。で、ますます貧しくなったんだけど。そのとき、ミシンを買ってくれましたよ、作品を。僕、届けた覚えがあるの。僕が2度行きましたよ、ミシン担いでね。1度はご本人に会えたし、1度は娘さんが出てきてくれたので、よく覚えてる。だから、そういう意味では、応援はしてくれたのね。
―― ずっと交流はあって。本当に気が合ったんですね。
小澤 合ったみたいね。それで、その後、どこかで征爾が声をかけられたんだよね、小林秀雄さんにね。そんな話があったな。
―― それから、当時の交流ということでいうと。新民会をやられたときに、最近、台湾絡みの話で有名になった根本博さん。
小澤 ああ、根本さんね
―― 根本さんが、軍のほうでは、かなり一緒になってやっておられたようですね。
小澤 そうですね。根本さんの名前はよく聞きましたよ。親父は、戦後も根本さんのところへは、よく行きましたよ。
―― そうですか、根本さんのところに。
小澤 近いからね。だから僕も知ってます、場所はね。ここが根本さんの家だと言われたから。
―― 根本さんは、写真を見ると丸々とした、恰幅のいい。
小澤 そうなんですか。僕はあんまり姿は覚えてないんだ。
―― 当時、繆斌さんが中国側の……。
小澤 うん。トップだよね。
―― それで、根本さんが日本軍としては、(新民会を)担当されていてということのようですね。
小澤 軍人の中で何人か、気の合う方はいたみたいですね。
―― 根本さん、お酒が好きだったようですから。
小澤 ああ、そうそう。それがまず大事なんじゃないの。たぶん、そうだと思う。
―― (小澤開作さんは)どういう方々と気が合ったというか。
小澤 酒が好きというのがまず第1でしょうね。それと、ざっくばらんな人。隠し事のないっていうかな、率直に何でも話す人だったね、みんなね。そういう方ですよね、親しい方は。
●軍需省の顧問として日本の炭鉱で働く台湾人や中国人を調査
―― あと、どなたか、根本さん以外には……。
小澤 土肥原賢二。土肥原さんとはうんと親しかったんじゃないかな。どうも、僕の覚えているんじゃ、北京へ行けと言われたのは土肥原賢二に言われたみたいな感じかな。ということは、つまりその頃、もう石原莞爾さん、それから板垣さんも満洲を離れてるんです。だから、その2人でないことは確かよね。そうすると誰だろうなと思ったら、誰かが、土肥原さんじゃなかったかと言っていました。
―― なるほど。確かに、なかなかあのあたりも、派閥争いと言えば身も蓋もないですが、「こいつは石原派だ」と思われたりすることもあるでしょうからね。
小澤 すごいらしいですね、軍の中ってね。派閥争いがすごいらしいもんね。
―― 当時、陸軍はまた色々と派閥がございましたから。
小澤 あったらしいね。
―― あと、北京でのお父様の活動で何か印象深かったことはありますか。『華北評論』をやられて、あとは新民会を、皆...
文芸評論家、作家