●満洲事変勃発! 私財をなげうって飛行場建設に奔走
―― それで、実際に満洲事変が起きて。
小澤 ひどかったのは、お袋に言わせるとね、もう数日帰ってこなかったと。歯医者はほったらかしてね。それで、ある日、突然帰ってきた。そうしたら、もう、ものも言わずにタンスを開けて、中にあった金を全部持って、またものも言わずに出かけて行ってしまったというんですよね。何に使うのかと思ったら、後で聞いたら、それで飛行場を造ったというんですよ。ねえ、ひどい話ですよね(笑)。
―― それは満洲事変が起きた後の話ですね。
小澤 そうですね。
―― 満洲事変が起きて。あれはおそらく、軍から要請されるんでしょうね、「飛行場を造ってくれないか」と。
小澤 直接要請したのではないみたいですけどね、軍としては。(飛行場が)なくて困っていたという状態みたいね。「どうしようか」というような状態だったのではないですかね。そしたら、それを聞いて、親父は黙っていられなくて、自分の金を全部持っていって、それで鍬(くわ)だのなんだの道具を買って、若者を動員して、一晩で飛行場を造ったというんですよ(笑)。
―― すごいですよね。
●大豆を傷めないように――飛行場建設の秘話(小澤開作顕彰会 伊藤進氏)
―― 満洲事変が起きたときに、長春に飛行場をつくるという話になって、あのときに自分の全財産を持ち出して、手弁当で飛行場をつくってしまった話がありますね。
伊藤 あの話も、(奥様の)さくらさんのエッセイを読むと、お父さんが久しぶりに帰ってきて、何をするかと思ったら、金庫を持って行ってしまったと。その金で鍬とか鋤とか、いろいろなものを買って、みんなに配って、そしてあの広大な大豆畑を、大豆を傷めないようにして。もう収穫の時期に来ていたんですね。
―― 9月ですからね。
伊藤 それをいい加減にやると農民が気の毒だから、ちゃんと大豆を農民に渡せるように、ちゃんときれいに刈り取ってくれということで、やったんですよね。それを1日でやっちゃったんですから。
―― すごいですね。あれ、何人ぐらい動員したんでしょうかね。女学校とか、たくさん来たという話ですけど。
伊藤 そうですね。恐らく数百人以上ということでしょうね。1000人とか、そういうことではないと思うので。やはり数百人でやったんでしょうね。
―― でも、そのときに大豆の収穫のことまで気にするというのは、やはり開作さんならではですね。
伊藤 開作さんという人と石原莞爾がなぜ気が合ったかと言うと、他の偉い人と違って、開作さんも石原莞爾も「人」を大事にしたんです。石原莞爾は、日本で若い連中を訓練するときに、どうしても田んぼや畑を使いますよね。そういうときに、そこの作物が傷まないように気を遣いながら訓練したのです。
だから石原莞爾、小澤開作というのは、やっぱり性善説に生きたということ。それから、とにかく人を大事にした。
●五族協和を実現すべく「満洲国協和会」を立ち上げる
―― (小澤開作さんは)まさにそういう形で、本当に八面六臂の活躍をされて。ある意味では、そこの場で、(本シリーズの)冒頭に話が出た石原莞爾さんや板垣征四郎さんなどともタッグを組んでという形ですね。
小澤 そうですね。「五族協和」という意味では、お2人とは意見が合ったみたいですね。
―― 特に小澤開作さんが意気投合したということで言えば、満洲事変の前から、満洲にいた日本の方々、小澤開作さんをはじめとした青年連盟の皆さんもそうですけれども、やはり「五族協和」といいますか、本当に満洲をそういう色々な民族の人が集まった国にするのだという、ある意味では独立的なイメージで、きちんとした国をつくるんだというイメージでおられたと思うんですね。
小澤 そうですね。
―― 満洲事変が起きて満洲国ができた後は、「満洲国協和会」という会をお作りになって、そこでも現地の日本人、いわゆる在野の日本人の代表格のような形で、山口重次さんたちと一緒に活動していったというところですけれども。
小澤 そうですね。
―― 元々は「協和党」という、政党にしたかった。
小澤 したかったようですが、政党は避けたみたいですね。「協和会」にしたということですが、何かそこは議論があったみたいですよね。
―― 現地の青年連盟の皆さんからすると、これを「政党」的にしたかったのだけれども、だんだん強くなってくる日本の官僚組織からすると、そんな活動をあまり好き勝手にやられたら困るという、せめぎ合いがあったんでしょうね。
小澤 あったみたいね。
●「帝国主義は断然やめた」中国人たちに示した理想と挫折
―― その前に開作さんは、(東北)交通委員会で活躍されています。
小澤 交通委員会というと、日本の言葉でい...