●なぜ「東大をぶっ壊せ」と言い続けたのか?
小澤 考えてみると、最後に歯医者になって、元へ戻ったのですけれども、歯医者になってからも、ずいぶん歯医者仲間などには話をしていましたね。あれ全部録音をとっておけばよかったなあと、いま思ってるのです。残念だった。
―― それはどういうお話をされていたんですか。
小澤 それは、満洲事変以来の話を。
―― ああ、そうですか。
小澤 これはね、僕も脇から聞いてるから、親父が何を話してるか、だいたい聞いています。いつも話してましたよ、自分の満洲での経験をね。長く、全部は話さないけど、この部分とか、この部分とか、というふうにしてね。で、あるとき、川崎の歯科医師会で呼ばれて、話をすることになったんですよ。僕は録音係で行こうと思ったの。もう(親父も)歳だしね。そしたら親父がね、「いや、録音なんか俺ができる。このボタンを押しゃあいいんだろ」と言って、自分で行ったんです。そしたら、ボタンを押し忘れて、全部ダメ(笑)。録音とっていないの。あれは僕の最大の失敗。僕がちょっと油断したんだね。
―― ご自身ができるとおっしゃったら、なかなか。
小澤 まあね。ちょっと付いていくのも……という感じはあったけどね、遠慮しちゃったんだけど。あれは失敗した。やっぱり肉親から記録をとるというのは難しいね。とっても難しい。意識しないとできない。
―― そういう色々なお父様のお話もございましたが、満洲国ないし満洲事変というものについては、小澤俊夫先生はどのようにお考えですか。
小澤 僕はね、親父からしか聞いてないから、一方的かもしれないけど。あれは完全にね、本当に(親父たちは)初めは純粋な「五族協和の独立国」というふうに思っていたと思います。それが壊されたと。
それで、壊したものは何かというと、日本の官僚と軍人だと、こういうことね。それは僕は、はっきりしていると思うな。(親父は)それを今度は中国でやろうと思った。でも、それもうまくいかなかった。そういう一生だったというふうに思います。
だからね、親父は本当にもう亡くなる直前まで、「日本の国を滅ぼすのは官僚と軍人だ」と言っていました。「その官僚を作っている大元は東大だ。だから、東大をぶっこわせ」と。
―― なるほど(笑)。
小澤 そうなんです。これは、東大紛争になるずっと前から言っていました。ずっと戦争中から言っていたことなのです。
そうしたら東大紛争が起きたでしょ。もう、完全に学生側を応援ですよ。がんばれ、がんばれと。だからあの最後の安田講堂事件のときは、もう本当にね、完全に学生応援。徹底してましたね。
東大だけではなく、京都大学もあるし、もちろん、色々な大学から出てきた官僚がいるんだろうけれども、トップに立つのはやっぱり東大が多いからね。だから親父は、その東大をぶっつぶせと言ったのは、確かだと思う。
―― 満洲のころのことで、岸(信介)さんが大嫌いだというお話もありましたけど、そういう色々な経験が生み出すものなのでしょうね。
小澤 ですよね。だから、僕はいま息子として、親父が言ったことを思い出してみると、東大だけとは限らないけれど、この戦後75年経ったいまでも、官僚が日本を支配しているよね。それが決していい方向を向いていない。そういう意味では、親父の心配はいまでも生きてるなというふうに思っています。
●「形式張るな」「責任の所在をはっきりさせよ」
―― これはちょっと難しい問いですし、答えがあるかどうかわからないのですが、いまおっしゃったような意味での「官僚的なるもの」と「小澤開作さん的なるもの」とで、一番違うところは、どういうところだと思いますか。
小澤 1つはね、「形式張らない」。それから「責任の所在をはっきりする」ということだと思うな。その2つなんじゃないかなあ。だから、いまの官僚組織を見ていると、責任を取らないよね。
―― 確かに、どこに責任があるかが、わからなくなりますね。
小澤 常に、わからない。どんな大きな事件が起きても、いつかみんな「もやもや」となってしまう。それが親父にはとっても耐えられなかったんじゃないかな。責任をはっきり取らなければいけないところを、曖昧にしてしまうということはね。
それと、形式張ることですね。形式張ることと、責任を取らないことは、あるいは裏表なのかもしれない、1つのね。形式張るから、責任が取れない。形式が壊れちゃったら困るから、責任が取れない。
―― そうですね。確かに(形式張ると)係長だったら係長、課長なら課長という感じになっていきますから、どこまでのどういう責任かというのは確かに見えづらいところがあるかもしれないですね。
小澤 その点なんじゃないかなあ。だから、一番元は、「形式張らない」...