●満洲にわたり、長春で歯科医を開業
―― ざっと振り返ると、(小澤開作さんは)山梨県の高田村で成育されて。そして東京に。
小澤 そう。しばらく東京へ出て、海軍省の下働きをやっていたみたいですね。嘱託(しょくたく)っていうんだけど、そんなかっこいいものではなくて、それは下働きだと思います。まだ20歳前後ですからね。それで結核になって、一度、山梨へ帰ってきて、3、4年療養したのかな。それでまた治って、勤めて、今度は歯医者の資格を取ったんですよね。
医者になりたいと思った。医者になるには、歯医者は検定試験でなれるというわけでね。大学へ行かないで、国家検定で歯医者になっちゃったんですよね。
―― 当時のことですから、先ほどの氾濫の話もありましたが、なかなか大学へ行くというのは、(経済的にも)大変な話ですからね。
小澤 とてもとても大変なことですからね、行ける身ではなかったので。
―― 開作さんも、さっき海軍の話もありましたが、「働きながら勉強して」ということも当然おありだったんでしょうね。
小澤 そうですね。それで23歳のときに、志を立てて、医学ですからドイツで勉強すると考えて、神戸から船に乗って、ひとりで出かけたというんですよね。だけど大連まで行って、そこでしばらく稼いでいたんでしょうね。日下歯科医院という歯科医院で働かせてもらっていた間に、だんだん長居をして。そして、大津(隆:たかし)というおじさん(※開作の妻となる、さくらの叔父)と出会って、その人の姪を嫁さんとして押しつけられて、それで結婚して、結局、ドイツには行かずにずっと満洲にいたという話で(笑)。
―― そもそも行こうと思ったら、重い中耳炎になってしまって、入院していたら、それで費用を全部使ってしまって……。
小澤 そうそう。そうでしたね。中耳炎になったんだ。
―― 当時ですから、入院にも相当なお金がかかったでしょうから。それで働いてという。
小澤 そういうことでした。
―― そういうご縁で満洲の、長春ですね。
小澤 そう。日下先生にね、長春には歯医者がいないから行けと言われて、それで行ったみたいですね。長春というのは、その頃、日本人なんてほんのわずかしかいないところでした。
―― そこには歯医者さんがいなかったということもあるんでしょうけど、皆さんからも信頼されて、とても繁盛した歯医者さんだったということですね。
小澤 まあ、そんなみたいですね。その頃、兄貴(長男・克己氏)と僕が生まれているんですよね、長春で。
―― 小澤俊夫先生はお生まれが何年ですか?
小澤 僕は昭和5年(1930年)です。
―― お兄様(克己氏)は?
小澤 その2年前です。1928年ですね。だから満洲事変のちょっと前ですよ。
●張学良政権の日本排斥・朝鮮人弾圧政策に怒り爆発
―― ちょうどお子様が2人できて。そして歯科医としても調子よくいってるときに満洲事変ということになっていくわけですけれども。
満洲事変の色々な理由がありまして、1つ言われているのが、あの当時、中国人による日本人に対する排斥運動が、かなり厳しくなってきていたことがあります。とりわけ、同じ日本人なのだけれども、立場の弱い朝鮮系の方々――というのも、当時、朝鮮半島は日本が併合しておりましたから――その朝鮮系の方々に対しては、随分と厳しい迫害がされていたということですね。
この背景として言われているのが、当時、満洲を支配していた張学良が、排日政策の1つとして「盗売国土懲罰令」というものを制定したことです。これは日本人や朝鮮人に土地を貸したり売ったりした者は、国土を「盗売」した者として処罰をするというもので、これが1930年には厳しく行われていました。そのために、朝鮮人が酷い目に遭わされた。非常に膨大な数の朝鮮人の農民が満洲で土地を奪われた。これに抵抗した朝鮮人の農民が、監獄にぶち込まれるということまであったということですね。
今、お示ししているのは、山口重次さんという、当時、小澤開作さんと一緒に、「満洲青年連盟」の一員として活躍された方が書いている記述ですけれども、こういうことがあったということですね。
だいぶ、迫害の件数も当時は酷かったみたいですね。
小澤 酷かったみたいですね。僕はまだその頃は本当に生まれたばかりですから、よく知らないですが。あとで聞いたのでは、排斥された日本籍の朝鮮人の人たちが、親父のところへ訴えに来たと、数人のグループでね。それで家で騒ぎになったという話も聞きましたね。親父とお袋が2人、2階にいたのだけれども、下まで降りていって……、という話を聞きました。
―― 「ドンドン、ドンドン」というようにやって来て。
小澤 という話を聞きましたね。
―― ちょうどその当時、小澤開作さんが「満洲青年連...
万宝山事件についての演説会で演壇に立つ小澤開作