●わが家を見張りに来て、女中さんと結婚してしまった憲兵さん
小澤 ところが不思議なことに、家に毎日来ていた小山さんという憲兵がね、毎日来ていて話を聞いているはずなんだけど、いつまでも親父は捕まらないのです。それで、そのうちにその小山さんが、家に女中さんが2人いたのですが、その若いほうの人と仲良くなって、結婚しちゃったんだよね(笑)。
―― 小山さんは憲兵さん?
小澤 憲兵です。
―― 小山さんはそもそも、いつぐらいから、どうやって来るようになったんですか、経緯で言うと。
小澤 僕が覚えてるのは、僕が小学校3年のとき……。
―― 昭和14年(1939年)ですね。
小澤 そうです。昭和14年ぐらいから来ている。だから丸2年は来ていたんですよ。
―― それは先ほど話があったように、「アカの巣窟=小澤公館」を見張りにくるわけですね。
小澤 そうそう。見張りにきたわけです。その見張りのしかたというのが、とにかくもう家の居間にいるんですから。それで、親父はその前で、平気で仲間と、軍の批判なんかをやるわけです。だから僕は、ひやひやしてましたよ、初めのうちは。
そのうち、小山さんは面白い人だったのね。僕なんかに剣道を教えてくれたりして、だんだん親しくなっちゃって。お袋はお袋で、ご飯のときは、「小山さん、一緒にご飯食べましょ」なんて呼んじゃうものですから、家族みたいになってしまったわけ、しまいに。それで家の女中さんと仲良くなって、結婚しちゃった。しかも、親父の仲人でね(笑)。ひどい話、すごいよ(笑)。
―― それは小山さんという憲兵の方も、腹が据わってるといえば腹が据わっていますね。
小澤 そう、腹が据わっていると思うよ。それでも、その後しばらく経ったら、蒙古の田舎に転勤になったんですよ。いまから考えると、あれは左遷だったんじゃないかと。
―― さすがに、監視対象のお手伝いさんと結婚してしまうというのは、まあ(笑)。
小澤 まあ、よくない(笑)。ミイラ取りがミイラになったという話だもん、これは典型的に。だから、あれは左遷だったんじゃないかなあと思うな、僕は。
―― それだけ憲兵政治というものがあって、東條英機さんというと憲兵政治みたいな話になるんですが、そういう実態がありながら、片や、小澤開作さんはそういう人さえ、ある意味では魅了してしまうということですね。そういう明るい雰囲気だったんですか。家の中は、どういう雰囲気だったんですか。
小澤 それはそうですよ。明るい、スパッとした人だった。竹を割ったようなという言い方があるけれども。気は短いけどね。怒るときはガーッと怒るんだけど、本当に優しい人だったからね。若い人にもよかった。とくに弱い立場の人にはすごい甘かったと思うな。それはだって自分が貧しい育ちでしょ。苦労してきてるからね、弱い立場の人にはもう徹底的に優しかったと思うな、僕は。
―― まさに典型的な、弱きを助けと。
小澤 まあ、そんな感じだね。
―― けっこう軍官僚などとも平気にけんかしていますから。弱きを助け……。
小澤 強きには向かってしまうほうだよ。本当にそうね。そこはもうはっきりしてたね。
―― 確かにそういう方というのは信頼されますよね。
小澤 まあ、そうでしょうね。それで、だいぶ経ってからですけどね、昭和15年に「もうこの戦争は勝てない」と言って、(昭和)16年の3月に僕らを日本に帰したわけです。で、自分だけ残っていたのね。18年まで残っていたんだけど。その頃、17年ぐらいだと思うんだけど、勲章をくれるという話になったんですよ。そしたら、親父はそれを断わってね。勲章を出すには業績表を出せと言われたんですね。でも親父が言うには、「俺は日本国民として当たり前のことをやったんで、特別な業績じゃないから書くことはない」と言って、断わった(笑)。それでも政府のほうは放っておけないらしくて、勲五等旭日章というのをくれましたよ。それは、親父はまだ日本に帰ってきていないときだったから、お袋が取りに行ったんですけれども。溝の口へ取りに行ったのを覚えていますが、何か、こんな銅像みたいなのをくれたのを覚えてますけどね、勲章とね。
●「後世、この雑誌だけは誰かが見つけてくれるだろう」
―― お父様が新民会をお作りになって、『華北評論』という雑誌を。
小澤 出したんです。
―― これはどういう雑誌だったんですか。
小澤 それはね、僕が小学校4年生、3年生のときだったと思うな。だから昭和15年の初めぐらいから出したんじゃないですかね。本当に政治評論雑誌でね。だけど、出すたびに、書くたびに検閲に引っかかって、「この部分は消せ」と言われるんですよ。そうすると、印刷されて、もうできてしまった雑誌なのにね、この部分は消せと言われて、黒で墨を塗るわけ。...