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「後世に誰かが……」検閲されてばかりの雑誌を発行する覚悟

小澤開作と満洲事変・日中戦争(6)『華北評論』に懸けた思い

小澤俊夫
小澤昔ばなし研究所所長/筑波大学名誉教授
情報・テキスト
前話で見たように「この戦争には勝てない」と平気で言い放つ小澤開作の家には、憲兵が監視に来ていた。しかし、その憲兵さんは、小澤家の女中とやがて結婚する。それほど、小澤家は明るい家庭だったのだ。だが、一方で小澤開作は『華北評論』という雑誌の発行に懸けていた。出すたびに検閲で引っかかり墨塗りを余儀なくされながらも、小澤開作は誰の援助も受けずに自分の財産を投じて発刊しつづけた。「後世の誰かが見つけてくれる。まともなことを言う人間がいたことを後世の誰かが認めてくれればいい」。それが小澤開作の覚悟だった。(全10話中第6話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)
時間:08:08
収録日:2019/10/09
追加日:2020/10/19
キーワード:
≪全文≫

●わが家を見張りに来て、女中さんと結婚してしまった憲兵さん


小澤 ところが不思議なことに、家に毎日来ていた小山さんという憲兵がね、毎日来ていて話を聞いているはずなんだけど、いつまでも親父は捕まらないのです。それで、そのうちにその小山さんが、家に女中さんが2人いたのですが、その若いほうの人と仲良くなって、結婚しちゃったんだよね(笑)。

―― 小山さんは憲兵さん?

小澤 憲兵です。

―― 小山さんはそもそも、いつぐらいから、どうやって来るようになったんですか、経緯で言うと。

小澤 僕が覚えてるのは、僕が小学校3年のとき……。

―― 昭和14年(1939年)ですね。

小澤 そうです。昭和14年ぐらいから来ている。だから丸2年は来ていたんですよ。

―― それは先ほど話があったように、「アカの巣窟=小澤公館」を見張りにくるわけですね。

小澤 そうそう。見張りにきたわけです。その見張りのしかたというのが、とにかくもう家の居間にいるんですから。それで、親父はその前で、平気で仲間と、軍の批判なんかをやるわけです。だから僕は、ひやひやしてましたよ、初めのうちは。

 そのうち、小山さんは面白い人だったのね。僕なんかに剣道を教えてくれたりして、だんだん親しくなっちゃって。お袋はお袋で、ご飯のときは、「小山さん、一緒にご飯食べましょ」なんて呼んじゃうものですから、家族みたいになってしまったわけ、しまいに。それで家の女中さんと仲良くなって、結婚しちゃった。しかも、親父の仲人でね(笑)。ひどい話、すごいよ(笑)。

―― それは小山さんという憲兵の方も、腹が据わってるといえば腹が据わっていますね。

小澤 そう、腹が据わっていると思うよ。それでも、その後しばらく経ったら、蒙古の田舎に転勤になったんですよ。いまから考えると、あれは左遷だったんじゃないかと。

―― さすがに、監視対象のお手伝いさんと結婚してしまうというのは、まあ(笑)。

小澤 まあ、よくない(笑)。ミイラ取りがミイラになったという話だもん、これは典型的に。だから、あれは左遷だったんじゃないかなあと思うな、僕は。

―― それだけ憲兵政治というものがあって、東條英機さんというと憲兵政治みたいな話になるんですが、そういう実態がありながら、片や、小澤開作さんはそういう人さえ、ある意味では魅了してしまうということですね。そういう明るい雰囲気だったんですか。家の中は、どういう雰囲気だったんですか。

小澤 それはそうですよ。明るい、スパッとした人だった。竹を割ったようなという言い方があるけれども。気は短いけどね。怒るときはガーッと怒るんだけど、本当に優しい人だったからね。若い人にもよかった。とくに弱い立場の人にはすごい甘かったと思うな。それはだって自分が貧しい育ちでしょ。苦労してきてるからね、弱い立場の人にはもう徹底的に優しかったと思うな、僕は。

―― まさに典型的な、弱きを助けと。

小澤 まあ、そんな感じだね。

―― けっこう軍官僚などとも平気にけんかしていますから。弱きを助け……。

小澤 強きには向かってしまうほうだよ。本当にそうね。そこはもうはっきりしてたね。

―― 確かにそういう方というのは信頼されますよね。

小澤 まあ、そうでしょうね。それで、だいぶ経ってからですけどね、昭和15年に「もうこの戦争は勝てない」と言って、(昭和)16年の3月に僕らを日本に帰したわけです。で、自分だけ残っていたのね。18年まで残っていたんだけど。その頃、17年ぐらいだと思うんだけど、勲章をくれるという話になったんですよ。そしたら、親父はそれを断わってね。勲章を出すには業績表を出せと言われたんですね。でも親父が言うには、「俺は日本国民として当たり前のことをやったんで、特別な業績じゃないから書くことはない」と言って、断わった(笑)。それでも政府のほうは放っておけないらしくて、勲五等旭日章というのをくれましたよ。それは、親父はまだ日本に帰ってきていないときだったから、お袋が取りに行ったんですけれども。溝の口へ取りに行ったのを覚えていますが、何か、こんな銅像みたいなのをくれたのを覚えてますけどね、勲章とね。


●「後世、この雑誌だけは誰かが見つけてくれるだろう」


―― お父様が新民会をお作りになって、『華北評論』という雑誌を。

小澤 出したんです。

―― これはどういう雑誌だったんですか。

小澤 それはね、僕が小学校4年生、3年生のときだったと思うな。だから昭和15年の初めぐらいから出したんじゃないですかね。本当に政治評論雑誌でね。だけど、出すたびに、書くたびに検閲に引っかかって、「この部分は消せ」と言われるんですよ。そうすると、印刷されて、もうできてしまった雑誌なのにね、この部分は消せと言われて、黒で墨を塗るわけ。...
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