●満洲、奉天での楽しい思い出、怖い思い出
―― そしてその後、(小澤開作さんが)満洲を離れて、北京に移られるのは何年のことでしたか。
小澤 あれは僕が小学校に入る前の年だからね、僕が5歳のときですから、昭和10年ですね。それで(昭和)12年に盧溝橋事件だから、ちょうど、そうです、10年の終わりですね。
―― その頃、満洲から北京に移られる前後のことで、俊夫先生が覚えておられることというと。
小澤 僕は、すごい寂しい思いがありました。奉天(現:瀋陽市)というところにいたんですけどね、とても満足して暮らしていたし、僕ら家族はね。近くにグラウンドがあって、ラグビー場があったり、冬はスケート場があったりなんかしていたし。それから叔父がいたんですよ。親父の一番下の弟なんだけど、それが医者になったんですが、その頃はまだ医学生。その叔父が一緒に家にいたしね。その人は、大学があるから奉天に残ったわけです。それで、僕らだけ(北京に)行ったわけでしょ。だから、すごい寂しい思いがありますね。
―― その離れることがということですね。
小澤 離れるときの。
―― 当時の奉天というのは、まだ4歳くらいですと記憶も断片的かもしれませんが、どんな印象がありましたか。
小澤 いやあ、小さい街でしたよ。あんまり大きな街じゃない。いまも当時の満洲医科大学の建物があるそうですけどね(現:中国医科大学)。大きな建物とはそれと、ヤマトホテルというのがありましてね。その2つしか大きなビルはなかったんじゃないかなあ。本当に小さな街でしたよね。
―― 奉天ですから、当時は日本人の方もけっこう多かったでしょうし。
小澤 そう。いたでしょうね。でも怖かったですよ。だってね、ある晩、僕の家に小澤静(しずか)という医学生が、親父の弟が同居していたんだけど、雨戸をドンドン、ドンドンと叩かれて、それでドアを開けてやったら、日本人の女の人が飛び込んできて、娘がさらわれたと言うんですね。それで、僕の家は大騒ぎですよ。すぐ警察に電話して。そうしたら幸いに救助できたんですけどね。そういうことがありました。それから、ピストルで撃たれたという話が2回ぐらいありましたよね。夜、歩いていて撃たれたと。だから、とっても怖かったですよ、奉天は。やっぱり中国側からの反撃があったんでしょうね。
―― 色々、ゲリラ的な攻撃ですね。
小澤 そうそう。あったんだと思います。
―― (中国)共産党も当然、出張っていますからね。
小澤 だから、そういう意味では怖かったですね。でも、僕は子どもだから、そういう怖いことはあったけど、楽しいことのほうが多かったもんだからね(笑)。楽しくやってましたけどね。それが小学校に入る前の年、5歳の年でしたね。
●「小澤公館」には転向した若者も大勢集まってきた
―― それで北京にお移りになって。
小澤 北京に移りましたね。
―― 小澤開作さんは、北京で新聞発行などを手がけながら、北京大学の学生など中国の方々との関係を構築していきます。そして北支、つまり華北でも「満洲国協和会」のような組織をつくろうと考える。それが結実したのが「新民会」です。この会の創立式典は1937年(昭和12年)12月ですが、ここでも小澤開作さんは、中国の方々と組み、中国人の主体性と自主性を重んじ、中国古来の思想に立脚して、教化工作や厚生工作をしていく組織をつくっていこうとする。そして、中国共産党や国民党に対抗して、真の日中友好を確立するためには、中国の農民の生活を向上させるしかないと考えて、北支の農村に合作社、つまり一種の協同組合をつくっていこうとします。そのような活動をしていくのが「新民会」ですね。
小澤 それを作ったんですよね、彼はね。それで、そこの総務部長になったのです。お相手の中心の方は、繆斌(みょうひん)さんとおっしゃる方でね、これは本当に立派な方だったようですね。親父がすごい親しかったもんだから、家族ぐるみのお付き合いになりましてね。お嬢さんたちも家へ遊びに来たことがよくあったし、本当に日本と宥和(ゆうわ)していこうという方だった。だから、初めのうちはとても良かったんですよ、新民会の動きは。それで当時、日本国内では、いわゆる転向の時代なんですよ。赤狩りで。
―― 共産党から転向するという。
小澤 そう。赤狩りで学生たちがたくさん捕まって、それが転向声明を出して、解放されたんです。で、行き場所がないから満洲へ来る。それから満洲から北支(華北)まで来るわけ。そうすると、来る人たちがみんな、小澤開作のところへ行けばなんとかなると言われていたらしいんだな。それで親父のところへ来ちゃうわけですよ。要するに家へ来ちゃうわけです。だから、小澤開作の家は「小澤公館」と言っていたのですが、公館は「中国のアカ(...
文芸評論家