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「涙を忘れてきた日本人が、敗戦で涙を知るのはいいことだ」

小澤開作と満洲事変・日中戦争(8)最後の和平工作は成らず

小澤俊夫
小澤昔ばなし研究所所長
情報・テキスト
繆斌(1899年~1946年)
中華民国の政治家
終戦の数カ月前、「新民会」で共に活動していた繆斌(みょうひん)が、日本を訪れる。彼は自分は蒋介石の特使だと語り、日本に和平を打診する。小磯國昭(首相・陸軍大将)や緒方竹虎(大臣・情報局総裁)、東久邇宮稔彦王はこの動きを支持するが、重光葵(外務大臣)や杉山元(陸軍大臣)などは「本当に信頼できるか怪しい」として猛反対。小澤開作は実現に向け奔走するが、結局、繆斌は日本から追い返されることになってしまう。だが小澤開作の必死の動きは、彼を監視していた特高警察の胸をも打つものだった。そして迎えた敗戦。このとき小澤開作は、子どもたちが決して忘れることのできない言葉を語った。(全10話中第8話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)
時間:10:56
収録日:2019/10/09
追加日:2020/11/02
タグ:
≪全文≫

●最後のチャンス「繆斌工作」に真剣に奔走する


―― そのとき(終戦直前)のエピソードとしては、中国の新民会で一緒だった中国人の繆斌(みょうひん)さんが蒋介石の(和平の)特使としてやってきて。これは歴史でもよく「繆斌工作」として出てくる話ですね。それにはずいぶんと……。

小澤 ええ、あれは真剣だったよ、親父は。本当に真剣。だって、日本はもう勝つ見込みはないわけですよね。

―― そのぐらいなるとだいぶもう……。

小澤 もう、やられてる。ミッドウェー海戦からやられてるでしょ。だから、あそこで蒋介石の特使として繆斌さんがいらして。蒋介石は「日本から、石原莞爾を出せ」と言ったんですってね。ところが、それが認められなかったんだそうですね。それで、もたもた、もたもたして。あの頃、本当に繆斌さんは始終、日本に来ていたし、親父は始終会ってたし。それで親父は、親父がとくに親しくしていた本庄繁さん。自殺なさったんですよ。その自殺する前ですけれども、親父は本庄さんのところへは始終行っていましたね、その頃は。それで、あれ(繆斌工作)を受けてくれと。それを天皇に進言してくれってね。本庄さんはもちろん、そのつもりだったんですよ。だけど、それが行かなかったのね。

 そのうちに原爆が落ちちゃったわけですよ。だから、本当は広島と長崎の被害者は死ななくて済んだんですよ。早く決断してくださればね。

―― この繆斌工作も、きちんと経緯を残しておかないといけないですね。

小澤 そうですよ。

―― 重光(葵)さんなどが、外務省として、かなり反対だったようですね。陸軍のほうは、たぶん推したんでしょうけれども。

小澤 ああ、そうなの。

―― 全部ではないにしても、推す人もいたとは思うんですけども。

小澤 重光さん。そうですか。

―― ええ。重光さんは確か、繆斌さんが本当に信頼できるのかどうか、蒋介石と握っているのかどうかというところで反対された。

小澤 それが重光さんなんですか、その意見は。繆斌さんを信じ切れなかったんだね、あそこでね。

―― そうでしょうね。政府の中でも信じるべきか、信じざるべきかということで、両論出てしまったんですね。ただ、繆斌さんはそのあとで、(蔣介石に)銃殺されることになるわけですからね。

小澤 そうです。銃殺ですよ。で、一族、本当に苦しんでね。かわいそうでね。決断できなかったというのは大きいよねえ。敗戦でなくて済んだんですから、本当は。

―― それに懸けた小澤開作さんの気持ちも非常にわかりますし。とくに新民会で一緒にやっていた仲だからこそ、たぶん繆斌さんも実際、和平工作に向けて真剣に動いたんでしょうし。

小澤 そうでしょう。そうだと思いますよ。

―― ここは本当に、もうちょっと色々と調べてみたいところではありますね。

小澤 そうですね。繆斌さんの遺族というのは、まだあちこちに生きてる。アメリカかな。中国にはいないかもしれないけどね。いられなくなっちゃったんですよね。国を裏切ったと言われてね。

―― まあ、そうですよね。

小澤 まあ、そうだね。確かにね。

―― 銃殺された1つの理由も、もちろん、日本との間で動いたということですからね。

小澤 そうですよね。

―― 新民会も含め、和平工作も含め。

小澤 そうですよ。

―― まあ、そういう意味では、本当に皆さん、命懸けで動かれたということですよね。

小澤 本当に、そうでしたね。


●特高課長が手紙に記した「この方こそ真の愛国者」という言葉


―― (小澤開作さんが日本に戻って)立川に来られてからも、憲兵がずっといらっしゃる。

小澤 そうなのよ。だから(昭和)18年に立川へ帰ってきてからも、もう浪人なんだけども、平気でまた政府の悪口を言うわけです、悪口というか、批判をさ。だから、もう僕はひやひやしてましたけれど、家に立川署の特高課長の高木さんという人が毎日来ているんですよ、これがまた。毎日来てる。北京の家と違って日本の家だから、普通の家でさ、ちょっと狭いじゃないですか。居間に1日いるわけよ。で、電話から何から全部聞いてるわけだよね。それでも平気で親父はね、軍のやり方、政府のやり方のおかしさを批判するわけね。僕は本当にひやひやしてた。そしたら結局、逮捕されないで、8月15日を迎えたでしょ。で、まあ、よかったと思ったわけよ。

 それで10年ぐらい経ってからかな、征爾がちょっと名が出たもんだから(※1959年にブザンソン国際指揮者コンクール第1位)、親父が亡くなったとき(1970年11月20日)、小さい新聞広告が出たんですね。そしたら、お葬式が終わって3日目に白い封筒が届いたのね、家に。裏を見たら、秋川市(現・あきるの市)、高木なんとかって書いてあるんだ。僕もお袋もすぐわかったのね。秋川の人だっていう...
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