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『ペルシャの幻術師』が出世作の司馬遼太郎、実は日本嫌い

司馬遼太郎のビジョン~日本の姿とは?(4)日本嫌いと大陸ロマン

片山杜秀
慶應義塾大学法学部教授/音楽評論家
情報・テキスト
『ペルシャの幻術師』(司馬遼太郎著、文春文庫)
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「蒙古語」と呼ばれていたモンゴル語を専門にした学生時代の司馬遼太郎。当時、エリートコースにうまく乗れなかった挫折感もありモンゴル語を選んだ司馬だったが、彼が夢見たのは大陸で自由な旅をする「馬賊」になりたいということである。そうした遊牧民に憧れる司馬は実は日本嫌いで、敗戦により余儀なく新聞社勤務を続ける中、小説『ペルシャの幻術師』を書く。それが出世作となるが、当時の日本人に大陸ロマンは受けない。そこで起こったのは、池波正太郎同様の転換だった。(2023年3月16日開催日本ビジネス協会JBCインタラクティブセミナー講演「いまこそ読まれるべき司馬遼太郎~その過去、現在、未来」より、全6話中第4話)
時間:12:50
収録日:2023/03/16
追加日:2023/06/11
≪全文≫

●モンゴル語専攻の理由と時代背景


 司馬遼太郎さんという人は、学校の受験に失敗したこともあり、外国語専門学校に進みます。とはいえこれもエリートが行く専門学校です。今の東京外大の源になるのが東京外国語学校であり、大阪にあった大阪外国語学校が戦後は大阪外大になり、今は大阪大学の中の外国語学部に代わっています。(彼は)そこへ行って、当時は「蒙古語」と呼ばれていたモンゴル語を専攻することにしたわけです。

 なぜモンゴル語を専攻したのかというと、(先述したように)司馬遼太郎さんは日本の受験でうまくいかず、当時の帝大に進むエリートコースにはうまく乗れなかったという挫折感が一つにはあったと思います。それから、彼はもともと大阪の人なので、瀬戸内海から海へ出て大陸と自由に商売する姿をいろいろと見ています。1923年生まれの人ですから、子どもの頃はまさに河本大作の張作霖爆殺から満州事変に向かっていく時期、つまり日本の大陸進出期にあたり、馬賊やそういうものにいろいろな夢を掻き立てられたはずです。

 そんな時代に世界大恐慌が始まり、満州事変が起こる。1923年生まれの司馬遼太郎さんは、1931年の満州事変の時は8歳でした。つまり、物心ついて世界というものを眺めていくときが日本の大陸進出の時代と重なっていたのです。その中で司馬遼太郎という人は、日本で学歴がうまくいかないので「じゃあ外国語で」となる。つまり、その頃に外国語を勉強して専攻してというハイティーンということになると、1930年代末から1940年代ですから、いよいよ太平洋戦争が近づき、その中で日中戦争を続けている時代なので、大陸で具体的に仕事がたくさんあるわけです。


●日本嫌いが「馬賊」に託した夢


 外国語学校で大陸で使える言語を勉強すれば、日本はいろいろな商売をしたり、役所もあったりするので、満州国のエリアでも、そこから外れて日本がいろいろ影響力を及ぼし占領しているようなエリアでも、たくさん会社もあるから、いろいろな仕事があったわけです。だから、中国語をやっていれば、いろいろな仕事に就けます。ところが、司馬遼太郎さんはそちらを選ばないで、満州語でもなく、モンゴル語というものを選びました。

 これによって、司馬遼太郎さんの関心が決まります。なぜなら、先ほど「馬賊」ということばを出しましたが、司馬遼太郎さんには、馬に乗って自由に旅をすることで狭い島国を超えたいという憧れがありました。

 実は「日本嫌い」ということを、司馬遼太郎さんは繰り返しいろいろな座談会や講演会で言っています。「私は日本の歴史小説をたくさん書いているから、日本のことをいつも考えていて、日本が大好きな人なのだろうと、みんな私のことを思っているかもしれないけれども、実は私は日本が嫌いなんです」というようなことを言っていたのが、司馬遼太郎さんです。

 司馬遼太郎さんのキャリアを調べると、このことばがポーズで言われたのではなく、本心だと私は思わざるを得ません。先ほどお話ししたように、司馬さんには日本の中ではうまくいかないから大陸で活躍したいという青少年時代の夢があり、モンゴル語を専攻するようになりました。「モンゴル語で食べていく」ことで人生を開いていったわけです。「馬賊になりたい」というのも、満州なりモンゴルのエリアで、日本人ではあってもモンゴル語を使っていろいろな仕事ができればという夢を託したことばです。「馬賊として放浪する」という夢です。

 モンゴルといえばジンギス・カンですから、かれらも馬賊というか騎馬民族であり、馬で動いていました。清朝をつくった満州族は少し違い、半分動いて半分土地を持っているような感じでしたが、やはり牧畜が中心でした。その騎馬軍団中心に明を滅ぼして、清朝を立てる。このように、大変軍事的な実力の高い騎馬軍団を持っていたのが満州族でした。

 そのような万里の長城の外側の、馬を乗り回している民族への憧れが「馬賊への憧れ」ということばになります。


●定住・蓄財を軽んじ、放浪をロマンとする心


 一方、万里の長城の内側すなわち中原で、たいそう豊かに流れる大河のもとで農業を行い、富を蓄積するような漢民族の文明形態に対しては、はっきりいうと軽蔑心というか、「そういうのは違う」と考えるのが司馬遼太郎さんのロマンでした。やはり馬に乗って自由にさすらい、いろいろなところへ行くのが楽しいからです。

 島国日本から解放されたいとはいえ、「中華」の名のもとに中華の土地の中で富を築き、貯め込み、広げて周りを従えていくような中国人のありようではない。馬に乗って自由にユーラシア大陸を旅しているような人間になりたいというのが、司馬遼太郎さんが少年時代から持っていた「馬賊への夢」でした。

 そこから大人になろうとして、日本の中で...
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