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大航海、資本主義、中国・ロシアの変容…モンゴルの重要性

モンゴル帝国の世界史(7)近代への礎をつくったモンゴル帝国

宮脇淳子
公益財団法人東洋文庫研究員
情報・テキスト
モンゴル帝国がユーラシアの大部分に及んだことで、後世にさまざまな影響をもたらした。その一例が中国の「省」である。また、モンゴル帝国時代に東西交易が盛んになったことが、のちの大航海時代にもつながり、ペストも資本主義もその時代にその源流があるという。世界史にとって、いかにモンゴルが重要であったか、改めて確認していこう。(全7話中7話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)
時間:13:19
収録日:2022/10/05
追加日:2023/02/11
≪全文≫

●中国の「省」はモンゴルがつくった


宮脇 モンゴルの元朝を今、「モンゴルなんて」と言う人がいます。でも今の中国のスタートは元朝です。今の中国の省(雲南省や浙江省など)は、元朝が作ったのです。

―― 単位というか、その言葉を、ですね。

宮脇 それまでのシナの漢字でできた王朝、シナ王朝は「県」が中心だったのです。

―― 確かにそうですね。

宮脇 「県城」といいます。県知事が中央から町に行って税金を取るのですが、農村を含めて税金を取る単位が一つの単位でした。そういった「県城」が中心だったのですが、モンゴルが南宋を落とした時に、県が何百もあったわけです。モンゴル人は、面倒くさいのは嫌なのです。モンゴル人はとにかく徴税官が税金を取って、それを皆に分ける。しかも先ほど(第6話で)言ったように、北の金をモンゴルが取った時に、金の町を1つ落とすためにモンゴル中の部族が参加していると、次の年からの税金は参加者全員に分配しなければいけない。

―― 確かに、そういう仕組みになりますね。

宮脇 実は帝国中、全部がそうだった。

宮脇 例えば、ジョチ家の領域のロシアのどこかの町を、フビライの一族が一緒に従軍して落とした町があります。そうすると、その次の年から、フビライ家も税金をもらう権利がある。そういったことが全都市であったのです。

 これは少し漠然とした話ですが、それでイスラム教徒たちが税金の額と分ける額を全部計算しているのです。やがて分裂した時に、あまりに税金を送るのが面倒だから、等価交換したといいます。「そこの町のうちの税金は、お前の家のここの税金とほとんど同じだから、これでお互い(精算しよう)」と。

―― 近くから取るようにするということですね。

宮脇 そうです。それを整理した。でも整理する前、金のある町は通りにあるそれぞれの家の税金がすべて違う家の取り分だった、などという話がある。

―― 確かに先ほど伺ったご説明からするとそうなりますね、モンゴルの場合。

宮脇 それで、ジョチ家が送った手紙の中に(次のようなやり取りがあります)。フビライとジョチは仲がよかったので、フビライ家からジョチ家に「お宅のところの○○の税金が何年分たまっていますけれど、どうしますか」と聞いていったら、「それは全部真珠にして送ってくれ」など。すごくわかりやすいでしょう。

―― わかりやすいですね。

宮脇 それらをイスラム教徒が間に入ってやり取りして、ひたすら商売しているわけです。それで、シナのほうも実は、いろいろな家の税金の取り分があったわけです。元朝皇帝の直轄地(広い地域)が「中書省」です。でも、それ以外の省は税金を取って分けなければいけない。それで「行中書省」といって、雲南や浙江など十数部に広く分けて、徴税官が1人で行って税金を集め、それを各貴族などに分配していた。細かい県城はやめて、省にした。これが今の中国の省です。

―― まさにモンゴル的な合理性に基づいて行なったと。

宮脇 分配のためです。


●中国は「元朝」で歴史が変わる


宮脇 もともとシナでは、穀物は中央に集めません。なぜなら、重いし、流通が大変なので。だから、県知事の請負制だったのです。任命書しかもらわずに現地に行って、現地の税金で自ら人を雇うわけです。だから、「官吏」という言葉は、「官」は中央が任官した役人で、「吏」は官が自ら現地で雇った役人のことです。

―― なるほど、

宮脇 それで、その給料も全部、税金から払わなければいけない。県知事は「集まった税金のうち何割」など決まった額を中央に納めるだけで、あとは自分でやりくりをする。これがシナのそもそもの役人のやり方だった。それをモンゴル時代は、自分たちが全部取り上げて(徴税・分配を)行なったわけです。すごいですよね。だから、中国が中国らしくなるのは、この時代からです。

―― その前の仕組みと比べると、やや近代国家的な要素が出てくるということになるわけですね。

宮脇 明もほぼ元のやり方のままで、「里甲制」といって村も町も十進法で里長を決めるなどしました。実は明の軍隊は、ほとんどが居残った遊牧民の軍隊だった。だから、軍と民(軍戸と民戸)が分かれていたわけです。なぜかというと、軍戸がもともと農業しない遊牧系の人たちだったからです。そして清朝になったら、またモンゴル的なものを使って運営する。これは別の話になりますけどね。

 だから中国は、実は元朝で歴史が変わるのです。東洋史の正史だけを見ている人は、(その歴史書には)司馬遷の『史記』以来の同じ文字しか出てこないので、その変化が分からない。

―― 単にその制度だけ、名前だけが変わっていくけれど……。

宮脇 中身がコロッと変わっている。

―― ...
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