●イスラム教徒と組んで資金と情報を得たモンゴル人
―― 次に、そのようにできてきたモンゴル帝国が、なぜ世界帝国としてあれほど版図を広げていったのかという点です。
宮脇 モンゴルはチンギス・ハーンについても資料(書いたもの)がないほどで、彼は字が読めなかったらしいのです。耳で聞いて、いろいろな言葉を理解したようですが。
そして、次のような逸話があります。遊牧民の中にはもう少し文化の高い人たちがいました。チンギス・ハーンは一番田舎から出てきたのですが、今のモンゴル国の中央のウランバートルあたりには、西と交流をしていて、もう少し文化程度の高い、文字を持った遊牧民がいたわけです。
そこを攻めて、逃げている大臣を捕まえたら、判子を持っていた。チンギス・ハーンがそれを見て、「それは何だ」と聞いた。そうすると、その大臣が「これは文字です」「君主が、自分が命令を出したということを証明するために、これを文字で書いたものに押すのです」などと説明した。それが実は古いモンゴル文字で、「それは便利だ、それを使おう」とチンギス・ハーンが決めて、子どもたちに勉強しろと言った。自分は歳だから勉強しなかったのです。
その文字は実は、地中海のシリアに始まるアラム文字(イエス・キリストが使ったらしいアラム文字)が、今のアラビア文字と同じ元から中央アジアに来てソグド文字になり、古いウイグル帝国の文字になった。だから、アラビア文字のように右から書いていた文字だったのです。
ところが、ウイグル帝国はシナとの関係が強かったため漢字も使い、漢字交じりで書くものができた。漢字は当時、絶対に横に書かず、縦にしか書かなかった。それで、文字を縦にしてしまったわけです。
―― なるほど。
宮脇 それでモンゴル文字は縦に書くのです。でも、アルファベットです。西から来ているシリア文字なのです。それを便利だということで、13世紀にモンゴル文字にした。
ということで、チンギス・ハーンの時代にやっと文字が来る。西の文化がモンゴルに入ったのです。ですから今、中国に言いたいのですが、モンゴル人は中国人とは違います。そもそも地中海文明がドッと東にやってきた、その端がモンゴルなのです。
―― 確かに文字が違うという点は典型的ですね。あれほど近いのに漢字が入っていない、と。
宮脇 そうなのです。それで、シルクロードとは「ラクダが砂漠を歩いて……」といったことしか言われないのですが、その北側には草原があって、匈奴の時代から馬でずっと東西交流があったのです。その東西交易の商業を担っていたのが、イスラム教徒だったのです。
もともと突厥帝国の時はソグド人といって、サマルカンドやタシケントの商人がモンゴル高原まで来てソグド帝国の家来になり、長安などで貿易をしていました。唐帝国がなぜあれほどの世界帝国かといえば、それを創ったのは鮮卑族で、商売を担った中央アジアのソグド人(胡人)という人たちがセットだったからです。そしてモンゴル(帝国)の時は、イスラム教徒がモンゴル人と組んだわけです。
モンゴル人は軍事力が強くて大帝国を作ったので、イスラム教徒が「ぜひ中央アジアまで来て、全部を平定してください」「小さな国がたくさんあると商売で関税を取られて大変です。モンゴルが大帝国を作ってくれたら、われわれは東西交易の遠距離貿易がとても便利になります。大変儲かりますから、お金を貸してくれたら倍返しします」といった具合に、イスラム教徒が家来になって情報を提供したわけです。
―― なるほど。
宮脇 「今、あそこを攻めたら落ちます」「あの町はこういうふうに攻められます」などとイスラム教徒が手引きしたのです。
―― 商業のネットワークですから、情報も早いということですね。
●チンギス・ハーン時代のモンゴル帝国が奪取した地域
宮脇 もともとモンゴル高原までネストリウス派のキリスト教も入っていましたし、西のほうがどんな状態かをモンゴル人は知っていました。だから、大帝国を作った段階で、すでに西に開けているわけです。
もちろん南のシナも攻めます。遼や金も攻めますが、西がどんどん広がっていることを肌で知っている。馬でどこにでも、どこまででも行ける。だからチンギス・ハーン自身は、南よりも西に攻めるわけです。
―― これは何の地図になりますか。
宮脇 1206年にチンギス・ハーンが遊牧民の部族長の盟主になり、そのあとチンギス・ハーン時代に「モンゴル」になった後、モンゴル帝国が遠征して奪取した地域です。
―― なるほど。
宮脇 チンギス・ハーン自身は「まだシナは人間が多い」ということで、北シナまで行ったのですが、金も滅ぼせなかった。それから、なかなか軍勢も大変だ...