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オゴデイ、フビライ…モンゴル帝国の継承争いと各地への影響

モンゴル帝国の世界史(6)モンゴル帝国、分裂へ

宮脇淳子
公益財団法人東洋文庫研究員
情報・テキスト
フビライ・ハーン
出典:Wikimedia Commons
チンギス・ハーン亡き後、子孫の間で継承争いが起こるようになり、広大な領土が分裂していくことになる。そしてそれぞれの子孫は、のちのロシアやインドといった地域に残り続ける。ここではチンギス・ハーンによる継承国家の系図を見ながら、いかにユーラシア大陸の多くの地域がモンゴル帝国と関わりがあったかを確認していく。(全7話中6話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)
時間:12:45
収録日:2022/10/05
追加日:2023/02/04
≪全文≫

●2代目盟主の後から継承争いが起こる


宮脇 もちろん、これ(スライドにあるようにモンゴル帝国が広がったの)はもう孫の代になります。

―― 孫の段階ですね。

宮脇 チンギス・ハーンは、あの時(編注:西夏遠征)そこの地で亡くなってしまいます。そこで息子のオゴデイが2代目の君主になります。オゴデイが2代目の時はまだよかったのですが、オゴデイが死んでしまったら、いとこ同士で喧嘩になった。なぜなら、これだけ(領土が)広かったら、集まるのは大変ですから。

―― それはそうですね(笑)。

宮脇 それで、「お前のところはもう勝手にやれ」という具合になって、半ば分裂してしまった。でも継承国家ではあるわけです。

 だから、色分けをするのは微妙なのですが、この色分けの境目のコーカサスあたりでジョチ家とイル・ハーン家は紛争しています。

―― そのあたりは仕方がないところですね。

宮脇 あそこはうちの家来だ、いや、こちらの家来だ、と。土地争いではなく、人間を取り合うのです。

―― なるほど。

宮脇 ともかく接触しているところは仲が悪いのです。だから、元朝とジョチ家は仲がいい。でも、オゴデイ家、チャガタイ家と元朝は仲が悪い。

 ただし、商人だけは保護しました。そうしなければ自分たちの得にならないからです。商売は保護したけれども、やはり財産争いにはなるので、分裂してしまった。

 ですから、日本人や中国人はすぐ「元朝=モンゴル帝国」というのですが、それは違います。全部が元朝だというと、今のロシアも中国がそのうち取りに来るよと。

―― そういうイメージになってしまいますね。

宮脇 元はあくまでも東の宗主国で、全体の4分の1くらいしかないですよ、ということを言わなければいけません。


●子孫が増えすぎて継承争いが熾烈に


―― この時は一応、フビライがハーンだったのですか。

宮脇 フビライがハーンになった時には、ハーンが2人いたのです。

―― もう並立しているということですか。

宮脇 違います。兄弟で継承争いをしました。兄弟で継承争いをしたので、ジョチやイル・ハーンは「うちは知らん、勝手にやれ」「うちもハーンだ」と言って、イル・ハーンとか、それから黄金のオルドもハーンと名乗り、ハーンが何人もできるわけです。それから、チャガタイとオゴデイも、自分たちでハーンを勝手に選ぶわけです。だから、唯一のハーンはいなくなる。でも、全員がチンギス・ハーンの子孫です。もうすでにチンギス・ハーンの子孫は1万人ほどいたという話がある。

―― 奥さんも多かったということですからね。

宮脇 なぜそれほど奥さんが多いかというと、全地域の人たちがチンギス・ハーンの親戚になりたかったので、「どうぞ結婚してください」と娘がどんどん送り込まれたのです。チンギス・ハーンの奥さんは500人いるという説もありますが、それは無理でしょう。50歳くらいの時に君主になったとして、それからではとても無理です。でも、「嫁を送った」とペルシア人が書いています。ジュヴァイニーの『世界征服者の歴史』にそうあるのですよ。

 私が思うに、一応チンギス・ハーン家に嫁に来た。チンギス・ハーンが(どんな形かは知らないけれども)その奥さんたちを引き受けて、子どもの嫁、孫の嫁、家来の嫁にして全部を受け入れたと考える。だから、ジョチの息子は、正規の奥さんだけで15人とか、30人いたとか。そのため、ものすごく子どもが増えるわけです。鼠算もいいところです。

―― 確かにそうですね。

宮脇 そして、それだけ子どもが増えると、均分相続なので、兄弟やいとこは競争相手です。残念ながら、二度とチンギス・ハーンのようなカリスマは現れず、二度とモンゴル帝国のような大きな仕組みは生まれなかった。4~5つある継承国家も、それぞれでまた100年後くらいに財産争い、継承争いを起こして消えたわけです。


●モンゴル帝国はどのくらい続いたか


―― そうすると、モンゴル帝国は大体、何年から何年までと理解すればいいですか。

宮脇 数え方によるのですよ。

―― そうなのですね。

宮脇 1206年にモンゴル帝国建国でしょう。そして、元朝がシナの支配地域を失うのは1368年なので、160年ほどです。そして、ジョチ家は分裂します。タタールも、クリミア・タタールといわれるクリミアのほう、ヴォルガのほう、カザンのほう、アストラハンなど全てジョチの子孫です。だから、何年までかといわれると難しい。ロシア史だと、1550年にカザンを取ったといいますが、1700年代にやっとクリミアを押さえるわけだから、長いのです。ジョチ家から数えたら、ロシアはモンゴル支配が長いのです。

―― なるほど。

宮脇...
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