●2代目盟主の後から継承争いが起こる
宮脇 もちろん、これ(スライドにあるようにモンゴル帝国が広がったの)はもう孫の代になります。
―― 孫の段階ですね。
宮脇 チンギス・ハーンは、あの時(編注:西夏遠征)そこの地で亡くなってしまいます。そこで息子のオゴデイが2代目の君主になります。オゴデイが2代目の時はまだよかったのですが、オゴデイが死んでしまったら、いとこ同士で喧嘩になった。なぜなら、これだけ(領土が)広かったら、集まるのは大変ですから。
―― それはそうですね(笑)。
宮脇 それで、「お前のところはもう勝手にやれ」という具合になって、半ば分裂してしまった。でも継承国家ではあるわけです。
だから、色分けをするのは微妙なのですが、この色分けの境目のコーカサスあたりでジョチ家とイル・ハーン家は紛争しています。
―― そのあたりは仕方がないところですね。
宮脇 あそこはうちの家来だ、いや、こちらの家来だ、と。土地争いではなく、人間を取り合うのです。
―― なるほど。
宮脇 ともかく接触しているところは仲が悪いのです。だから、元朝とジョチ家は仲がいい。でも、オゴデイ家、チャガタイ家と元朝は仲が悪い。
ただし、商人だけは保護しました。そうしなければ自分たちの得にならないからです。商売は保護したけれども、やはり財産争いにはなるので、分裂してしまった。
ですから、日本人や中国人はすぐ「元朝=モンゴル帝国」というのですが、それは違います。全部が元朝だというと、今のロシアも中国がそのうち取りに来るよと。
―― そういうイメージになってしまいますね。
宮脇 元はあくまでも東の宗主国で、全体の4分の1くらいしかないですよ、ということを言わなければいけません。
●子孫が増えすぎて継承争いが熾烈に
―― この時は一応、フビライがハーンだったのですか。
宮脇 フビライがハーンになった時には、ハーンが2人いたのです。
―― もう並立しているということですか。
宮脇 違います。兄弟で継承争いをしました。兄弟で継承争いをしたので、ジョチやイル・ハーンは「うちは知らん、勝手にやれ」「うちもハーンだ」と言って、イル・ハーンとか、それから黄金のオルドもハーンと名乗り、ハーンが何人もできるわけです。それから、チャガタイとオゴデイも、自分たちでハーンを勝手に選ぶわけです。だから、唯一のハーンはいなくなる。でも、全員がチンギス・ハーンの子孫です。もうすでにチンギス・ハーンの子孫は1万人ほどいたという話がある。
―― 奥さんも多かったということですからね。
宮脇 なぜそれほど奥さんが多いかというと、全地域の人たちがチンギス・ハーンの親戚になりたかったので、「どうぞ結婚してください」と娘がどんどん送り込まれたのです。チンギス・ハーンの奥さんは500人いるという説もありますが、それは無理でしょう。50歳くらいの時に君主になったとして、それからではとても無理です。でも、「嫁を送った」とペルシア人が書いています。ジュヴァイニーの『世界征服者の歴史』にそうあるのですよ。
私が思うに、一応チンギス・ハーン家に嫁に来た。チンギス・ハーンが(どんな形かは知らないけれども)その奥さんたちを引き受けて、子どもの嫁、孫の嫁、家来の嫁にして全部を受け入れたと考える。だから、ジョチの息子は、正規の奥さんだけで15人とか、30人いたとか。そのため、ものすごく子どもが増えるわけです。鼠算もいいところです。
―― 確かにそうですね。
宮脇 そして、それだけ子どもが増えると、均分相続なので、兄弟やいとこは競争相手です。残念ながら、二度とチンギス・ハーンのようなカリスマは現れず、二度とモンゴル帝国のような大きな仕組みは生まれなかった。4~5つある継承国家も、それぞれでまた100年後くらいに財産争い、継承争いを起こして消えたわけです。
●モンゴル帝国はどのくらい続いたか
―― そうすると、モンゴル帝国は大体、何年から何年までと理解すればいいですか。
宮脇 数え方によるのですよ。
―― そうなのですね。
宮脇 1206年にモンゴル帝国建国でしょう。そして、元朝がシナの支配地域を失うのは1368年なので、160年ほどです。そして、ジョチ家は分裂します。タタールも、クリミア・タタールといわれるクリミアのほう、ヴォルガのほう、カザンのほう、アストラハンなど全てジョチの子孫です。だから、何年までかといわれると難しい。ロシア史だと、1550年にカザンを取ったといいますが、1700年代にやっとクリミアを押さえるわけだから、長いのです。ジョチ家から数えたら、ロシアはモンゴル支配が長いのです。
―― なるほど。
宮脇...