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生誕100年、司馬遼太郎、遠藤周作、池波正太郎の世界に迫る

司馬遼太郎のビジョン~日本の姿とは?(1)1923年生まれの3人の作家

片山杜秀
慶應義塾大学法学部教授/音楽評論家
情報・テキスト
司馬遼太郎
出典:Wikimedia Commons
司馬遼太郎生誕100年の今年(2023年)、小学生の頃から愛読者だった片山杜秀氏が司馬文学の魅力と限界、今日への影響を語り尽くす。まず同年生まれの作家として挙げられるのが遠藤周作と池波正太郎。戦前に教育を受け、20代前半で敗戦を迎えて戦後を活躍した彼らにとっての最重要テーマは西洋と日本の関係だった。(2023年3月16日開催日本ビジネス協会JBCインタラクティブセミナー講演「いまこそ読まれるべき司馬遼太郎~その過去、現在、未来」より、全6話中第1話)
時間:17:04
収録日:2023/03/16
追加日:2023/05/21
≪全文≫

●小説が娯楽と教養の中心だった時代の作家たち


 司馬遼太郎さんはご存じの方も多いかと思いますが、今年(2023年)が生誕100年です。

 私などの世代(50代)では、子どもの頃から自分が読んでいて、大人もみんな読んでいたような作家はちょうど生誕100年前後の人が多いような時期になっているのかもしれません。

 といいますのは、2023年は遠藤周作さんという小説家も生誕100年で、それから、池波正太郎さん。『鬼平犯科帳』で有名でしょうが、『真田太平記』や『剣客商売』などの作品もあります。時代劇のお好きな方であれば、池波さん(の作品)は、ここ何十年もコンスタントにどこかでやっているイメージがあると思います。

 彼らはみんな1923年生まれです。ただ、池波さんは1月生まれ、遠藤さんは3月生まれ、司馬さんは8月生まれですから、たぶん学年でいうと、池波さんと遠藤さんのほうが、司馬さんより小学校入学(年度)などは1つ違うかと。同じ年といっても、日本人はやはり年度が重要なので、そういうことを考えると1年違っているともいえるわけですが、みんな1923年生まれで、生誕100年を迎えています。

 3人はだいぶジャンルが違うということもありますが、昭和40年代から60年代、平成前半くらい(に活躍されました)。池波さんの場合はテレビドラマ化や映画化の関係もあるので、司馬さん以上にテレビなどにおける露出は多くなって、それが続いている時代は結構長いということもあると思います。『鬼平犯科帳』も新しい(映画や)テレビドラマがつくられるタイミングになっているようです。

 そう考えると、小説というものが確実に今以上に多くの人たちの娯楽であり教養であった時代に、遠藤さんは純文学ということになりますが、ユーモア小説や青春小説など、いわゆる通俗小説もたくさん書いたうえに、歴史小説も実はたくさん書いている方です。池波さんは、いわゆる時代小説家ですが、真田幸村がらみのものなど少し創作が多いという点はもちろんですが、単純な娯楽小説を超えたようなものも含めて、広い意味での時代小説家、歴史小説家といえます。司馬さんは、いうまでもなく時代小説家・歴史小説家であり、文明論者や評論家のような非常に大きなスタンスで活動された方です。

 この人たちは1923年生まれ。つまり敗戦までに成人して戦争中にかなりの教育を受け、人によってはある程度仕事を始めようかという状況になっていた。そういう世代の人が戦後本格的な活動をして、ものを読む多くの人をリードしていくようになった。この人たちが同じ年というのは、ちょっと面白い気がします。


●『沈黙』で日本と西洋の分かり合えなさを描いた遠藤周作


 しかも時代小説・歴史小説ということで考えると、遠藤さんという人はキリスト教カトリック)というものにベースをお持ちの方で、フランスに留学なさったりもしました。でも、日本人にはキリスト教は分からないのではないかという思いもあり、インドに惹かれたりもしたようです。ただ、その前に、日本人にはキリスト教は分からないのではないかという懐疑を強く打ち出した小説として『沈黙』を発表されました。

 キリスト教の宣教師が熱烈にキリスト教信仰してくれる日本人に感激して、幕府に弾圧を受けながらも、(自分のところに集まる)日本人はみなキリスト教を信じているし、自分も宣教師として頑張らなくてはいけないのだと決意する。それで弾圧を懸命に耐え忍ぼうとするのだけれども、実は自分が教え、信仰に導いているはずの日本人は、西洋世界の人間が考えているキリスト教とはどうやら別のものを信じているようで、話がちょっと違っていることに気づく。そうして自信を失う中で、結局は幕府に転ばされてしまう。

 そして、踏み絵を踏んでキリスト教を捨て、日本人化して余生を送っていくというのが『沈黙』で、「なんとか救ってくれ」と一生懸命宣教師が祈っても、神は結局沈黙を守っているだけである。つまり、西洋人がキリスト教を捨てる話なのですが、それは日本的な風土の中、キリスト教が生きていけない世界があるのだということをさんざん思い知らされた挙句の果てに転ばされるということだから、結局は日本とキリスト教の問題になるのです。

 日本というのはどこまでいっても、どれほど西洋というものと仲良くして、キリスト教も分かっているつもりになっても、やはり分かっていないのではないかというのが、遠藤さんの懐疑ということで、歴史小説・時代小説的なところに、そういうものを強く打ち出していきました。

 その一方で、やはりキリスト教というものを信じようとした日本人も遠藤さんの関心にあり、それが遠藤さんの歴史小説というものに(なっていく)。『沈黙』よりも前の戦国時代から豊臣...
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