●トルストイが考えた「歴史とは何か」とは
皆さん、こんにちは。新聞等で報じられている通り、「21世紀構想懇談会(正式名称:20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会)」が発足し、2015年2月25日に第1回の会合が持たれました。今年は安倍総理大臣が戦後70年の談話を出しますので、その判断材料を提供するための場とされています。
私もこの会合に参加することになりましたため、この機会を借りて、自分の発言に対する個人的な根拠として、「歴史とは何か」に関する所感めいたことを、あくまでも個人の資格で述べたいと思います。
『戦争と平和』を書いたロシアの文豪・トルストイは、歴史の出来事について、根本までさかのぼって熱心に理解しようとしたことがあります。『戦争と平和』の巻末部分を読むと、彼自身が抱いた「歴史とは何か」の問いをめぐり、非常に浩瀚(こうかん)な議論が展開されていることが分かります。
トルストイは、ヨーロッパの歴史学の金字塔とも言うべき、エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』についてさえ、批判を行ったことがあります。歴史が叙述としてなされる以上、そこにはどうしても枠組み(カテゴリー)が必要です。その枠組みがいかにも空虚であること、そして空虚な枠組みと、現実に起こった歴史の事実が混同されているという批判でした。
しかし、後世から「全面的に非歴史的」であると非難を浴びたのはトルストイの方でした。トルストイの考えは、時に歴史を物語と誤解する傾向を帯びていたため、彼はやはり文学者であって、歴史的とは言えないと批判されたのです。
●客観的に見て公平に評価するのが歴史家の仕事
私たち歴史家からすれば、その仕事は、出来事や人びとの在り方をできるだけ客観的に見て、公平・平等に評価することにあります。ラテン語には、“Id est quod est(カクノゴトクアルモノハ、カクノゴトクアル)”という言葉があります。「このように存在する現実は、このようにしか存在し得ない」という、動かない事実に対する学問の在り方を示した言葉です。
私自身は、日本の歴史や日本人のこれまでの過去について、格別悲観的に考えたことはありません。歴史的にみれば、われわれが多くの事柄を反省しなければならないのは当然の事実です。しかし、あえてそうした事...