●世界中を驚かせたトルコ軍ロシア機撃墜事件

  • 2015年11月24日のトルコ空軍機によるロシア軍機の撃墜は、シリア問題や現在の露土関係に重要な影響を与えるのみならず、緊張感をますます高める要因になっている。
  • 後から歴史を回顧したとき、この事件はいわゆる「第二次冷戦」を深めることになった要因であったと言われるかもしれない。トルコの行為は、ロシアからすれば、中東において新しい勢力分布の再編、国家の線引きを試みる上で、地政学的な挑戦と受け止められたというのが事実である。
トルコ軍ロシア機撃墜問題(1)募る緊張、関係悪化の背景(山内昌之)

●以前よりロシア軍はトルコ領空を侵犯していた

Su‐24
  • 10月初旬、ロシアの対シリア空爆開始後、ロシア軍の飛行機が幾度かトルコ領空を侵犯していた。ある時は、Su‐30(スホイ30)などをはじめとしたロシアの空軍機が5分以上にわたりトルコのF‐16をレーダー照射(ロックオン)したことも伝えられている。
  • トルコとNATOは、国会において一種の最後通牒を出し、ロシアがこれ以上領空侵犯を繰り返したときにはロシア軍機を撃墜するという可能性を示唆していた。したがって、そうした通牒を出した以上、「ポイント・オブ・ノーリターン」(帰還不能点)の状況となり、今回の選択となったという説がある。
  • また、あるトルコ人の学者によると、トルコ空軍機は、あらかじめ予想される航路に出てスクランブルし、待ち伏せしてSu‐24を撃墜したという説もある。
トルコ軍ロシア機撃墜問題(1)募る緊張、関係悪化の背景(山内昌之)

●手ごわい強国・ロシアをなぜ攻撃したかが大きな疑問

  • ロシアとトルコは過去4回、大きな戦争を行い、オスマン帝国やトルコ共和国はその都度多くの領土を奪われたり、賠償を余儀なくされた苦い経験を持つ。オスマンが弱体化してトルコが成立する過程で、2国間の力関係においてトルコはますますロシアに劣る存在になった。
  • したがって、トルコにとってロシアは手ごわい相手であり、たやすくスクランブルをかけ飛行機を撃墜できるといったような国ではないはず。
トルコ軍ロシア機撃墜問題(1)募る緊張、関係悪化の背景(山内昌之)

●事件の背景には北シリアに渦巻く民族問題がある

  • シリアとの係争地であるトルコの「ハタイ県」に接するシリアの要衝・バユルブジャクのいくつかの拠点を、ロシアが支援するアサド政権のシリア軍が占拠に成功。しかし、そこにはトルコ人の兄弟民族であるトルクメン人が住んでおり、このこととクルド人問題が、今回の撃墜事件とやや複雑かつ厄介な関係を持っている。
  • トルコのエルドアン大統領は、トルコ東南部に勢力を持つクルド人の政党・クルディスタン労働者党(PKK)と和平交渉を行ってきたが、2015年6月の選挙で敗北したため、クルド人に強硬姿勢を示すことで11月の総選挙で多数の支持を得ようというもくろみからこの交渉を打ち切り、再度武力行使に切り替えた。結果、11月の選挙には反クルド票を集めて多数を獲得した。シリアには、このPKKの出先ともいうべきPYD(民主連合党)とYPG(人民防衛部隊)があり、これらが北シリアに自治国家を事実上つくろうとしていることと、今回の事件はつながっている。
トルコ軍ロシア機撃墜問題(2)北シリアをめぐる民族問題(山内昌之)
ダウトオール首相
  • もしIS(イスラム国)がなくなれば、トルコとシリアの国境に残る重要な勢力はクルド勢力のみとなり、トルコの安全保障上好ましくない。また、トルコが領土的に接するアラブの隣国がなくなるということになり、ダウトオール現首相が外相時代から提唱してきた、オスマン帝国時代の領土に対して積極的な外交を展開する「新オスマン外交」や、隣国との「問題ゼロ外交」といった対アラブ積極外交が、完全に破綻することを意味する。
トルコ軍ロシア機撃墜問題(2)北シリアをめぐる民族問題(山内昌之)

●トルコの北シリア分離構想はロシアのシリア空爆で困難に

  • トルコ国内の世論対策上からも、シリアの北にいるトルクメン人の擁護は不可欠。また、PYDが地中海とつながることを阻止し、勢力を内陸部にとどめておくことが地政学的にも重要。PYDによるトルクメン人に対するエスニッククレンジングを妨げるためにも、トルコにとってはアサド政権の打倒だけでなく、PYDの弱体化が必要な状況。
  • トルコの狙いは、米欧やNATOの支援でつくる「安全地帯」へのトルクメン人の編入。この安全地帯は、アレッポ北部とイドリブのスンナ派アラブ人居住地も含まれ、いずれ北シリアが独立国家となる基盤になるはずだった。ところがロシアがシリアを空爆し、内戦に参入したことにより、トルコの調整能力の欠如と相まって、北シリアの分離独立構想を難しくしている。
トルコ軍ロシア機撃墜問題(2)北シリアをめぐる民族問題(山内昌之)

●トルコはいま政治的苦境に立たされている

エルドアン大統領(左)
  • 強硬路線一点張りの自信に満ちたエルドアン大統領の対外政策は、結果としてトルコを孤立させることになった。今、イエメン、シリア、エジプト、イスラエル、リビアといった中東の国々にトルコが大使を置いていないのは、大使召還という大変強硬な措置を採ったことによる。
  • 2015年7月14日に、トルコはアメリカとの間に軍事安全保障協定を締結し、トルコの西南部のインジルリクの空軍基地から、イラクやシリアのISを攻撃するための発進を米英に許可した。これは、八方ふさがりとも言うべき現在のトルコの状況を打開しようという意欲と結び付いている。
トルコ民主主義の行方(2)問題ゼロ外交の破綻(山内昌之)
  • トルコでは今、(1)トルコ政府によるISと戦うクルド人たちに対する攻撃 (2)トルコ政府によるクルド人と戦っているISに対する攻撃 (3)クルド人とIS間の衝突へのトルコ軍の介入 という「三つどもえの戦争」が展開されている。
  • エルドアン大統領が片手に「クルド」と書かれた爆弾を六つ、もう一方の片手に「IS」と書かれた爆弾を一つ持っている。つまり、「どちらの敵にも同じように対決する」と言っても、クルド人が主要な標的であり、だから6発落とす。エルドアンはISには攻撃したくないと思っているから、1発だけ落とす。こういうトルコの漫画があり、エルドアンの胸中を非常によく表現している。
トルコ民主主義の行方(1)複雑な中東三つどもえの戦い(山内昌之)

●一方のロシアはトルコに対する強硬姿勢を崩さない

  • ロシアとしては、アサド政権を守りつつ、ISの軍事指導部に数多くいる自国出身のチェチェン人がロシアに帰国することを断固阻止しなければいけない。だから、ISに対して融和的でロシアの敵を泳がせておくトルコに我慢ならないものがあった。
トルコ軍ロシア機撃墜問題(2)北シリアをめぐる民族問題(山内昌之)
  • 2015年11月末から12月にかけてパリで開かれたCOP21でも、ロシアのプーチン大統領はトルコのエルドアン大統領との会見や会談の申し込みを拒否し、強硬な姿勢を崩していない。
  • プーチンはこれを機会に、従来ロシアの諜報機関が握っていたトルコとISとの関係についてのさまざまな情報を虚実取り混ぜながら流しており、トルコがISの石油を買い、利権を守るためにそのルートを妨害していたロシアの空軍機を撃墜したとロシアが主張するようになった。
トルコ軍ロシア機撃墜問題(4)ロシア強硬姿勢の理由(山内昌之)

●ソ連の中東外交を否定したゴルバチョフ、復活させたプーチン

  • 思い起こせば、1980年代のミハイル・ゴルバチョフの外交は、EUやアメリカとの接近によって、従来の冷戦下においてロシア共産党国際部やソビエト連邦の外務省が伝統的に図っていた冷戦の戦術に終止符を打ち、中東に関しても身を引いた。しかし、プーチンは、今やゴルバチョフが否定した時代以前に戻り、中東を一種ダミー、あるいは代理戦争の場として使い、アメリカやEUに対して有利な地位に立とうとしている。
ロシアの中東政策(前編)欧米が持たない「てこ」(山内昌之)

●今回の事件にまつわる国際対立の敗者は、疑いなくトルコ

  • 自らの兄弟民族である北シリアのトルクメン人に対してアサド政権の軍隊が攻撃を加え、ロシアがそれを軍事顧問として指導しているという事態は、トルコにとって面白くない。かといって、トルクメン人の保護が21世紀の新しい露土戦争の引き金になるというのは、全体としてトルコの利益にとって合理的な選択とは言えない。
  • 今回のロシア軍機撃墜にまつわる国際対立の敗者は、疑いなくエルドアンであり、トルコ。シリアの反アサド勢力、あるいはトルクメン人も、いわばそばづえを食った状況。トルコは、ロシアと米欧、NATOの双方によって、ISとの関係の断絶を迫られ、テロとの戦いの強化を理由に、ISに対する作戦への協力をますます迫られることになる。
トルコ軍ロシア機撃墜問題(3)戦略的利益はあったのか(山内昌之)
  • ロシアは今回の襲撃事件を、シリア問題において最大限に利用するはず。他方、トルコには切り札があまりない。この危機が進行すれば21世紀の露土戦争になりかねないという状況だが、それを解消するために、トルクメン人への援助の中止や、北シリア、特にアレッポをめぐるアサド政府軍と反アサド勢力の戦いへのトルコの関与の中止、さらにISとトルコの関係の断絶など、ロシアはトルコに対して非常に厳しく高いハードルを課して要求を突き付けるものと思われる。
  • 結論を言うなら、今回の撃墜事件は、それによってシリア問題や中東における米欧、あるいはNATOの力が後退したことを示している。反対に、ロシアこそがシリア問題や中東問題における主要なプレイヤー、しかも最も核となる中心プレイヤーとして地位を確立しようとしていることを意味しており、現実的にはトルコが思い切って譲歩しない限り、ロシアが厳しい態度を緩和する可能性は今のところ低い。
トルコ軍ロシア機撃墜問題(4)ロシア強硬姿勢の理由(山内昌之)