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DATE/ 2023.12.20

『はたらく物語』が問う「働くこと」の意味と現実

 現代社会における仕事や労働をとりまく状況は大きく変化しています。デジタルツールの発展によりリモートワークが一般化し、仕事と私生活のバランスを取る新しい働き方が注目されるようになりました。一方で、AIの登場により労働市場は変革され、労働者に求められるスキルも変わってきています。このような状況では、「働くこと」の意味も、改めて考え直す必要があります。

 今回ご紹介する『はたらく物語 マンガ・アニメ・映画から「仕事」を考える8章』(河野真太郎著、笠間書院)は、「はたらくこと、仕事、労働」と「物語」をテーマにした著作です。本書は、さまざまな媒体で語られる物語を、仕事や労働という観点から読み解き、現代における「働くこと」の意味を問い直そうとしています。

「労働を自分のものにする」ことを目指して

 本書の著者である河野真太郎先生は、専修大学で国際コミュニケーション学部教授専修大学をつとめる英文学者です。これまで専門の英文学に関する専門的著作の他に、ポップカルチャーの批評を通じて現代社会を論じる一般向けの著作も多く書かれています。たとえば、ジェンダーと労働や社会の関係をディズニーやジブリの映画作品などから考察した『戦う姫、働く少女』(ちくま文庫)や、ポストフェミニズム下の男性性の問題を分析した『新しい声を聞く僕たち』(講談社)があります。本書はその延長線上に位置しており、特に「労働」という点に着目した作品です。

 河野先生は、誰もが「働くこと、労働を、自分のものにしたい」という願望を持っているといいます。「労働を自分のものにする」とはどのようなことでしょうか。どんな人でも、労働というものに自分を支配されてしまうような働き方は避けたいはず。かといって、「労働こそ人生」といった考え方は重い感じがして、引かれてしまいそうです。そこで、言い方を変えて、「労働を自分のものにする」という言葉を使い、思考することからはじめてみようと提案しているのです。

 本書ではさまざまな物語作品が読み解かれていきます。取り上げられている作品を並べてみましょう。『3月のライオン』『プラダを着た悪魔』『マイ・インターン』『宝石の国』『機動戦士ガンダム水星の魔女』『株式会社マジルミエ』『シン・ゴジラ』『0.5ミリ』。みなさんもよく知っている作品ではないでしょうか。

 このラインナップが興味深いのは、どれも「仕事」や「労働」を直接的なテーマにした作品ではないということです。通常、ポップカルチャーにおける「仕事」を分析しようとするとき、たとえば安野モヨコ氏の『働きマン』のような「仕事もの」が取り上げられることが多いのではないでしょうか。それに対して、本書は必ずしも「仕事」をテーマにしている作品に限定せず、しかも『宝石の国』のように現代社会とは異なる世界を描いたSF作品まで論じている点が特徴的です。

仕事や労働をめぐる現況――「フォーディズム」と「ポストフォーディズム」

 本書の議論を理解する上で、重要となる概念がいくつかあります。その中から、「フォーディズム」と「ポストフォーディズム」をここで確認しておきましょう。「フォーディズム」とは、20世紀初頭に自動車製造会社のフォード社が確立した産業生産方式です。ベルトコンベアーの上に自動車を流して製造していく流れ作業方式で、大量生産と大量消費の体制を作り出しました。

 フォーディズムの下では、労働者はベルトコンベアーの前で黙々とした単純労働に従事することになります。職人仕事のように生産プロセス全体に関わることはなく、いわば部分的な「歯車」になるような働き方です。このような状況を専門的には「疎外された」労働といいます。

 このように、フォーディズムの労働者はベルトコンベアーの前で自分ではないもの(歯車)になりますが、その一方で「本来の自分」に戻る時間も与えられています。それが仕事以外の時間、つまり余暇の時間です。

 これに対して、ポストフォーディズムとは、フォーディズムの後に来たとされる生産体制です。フォーディズムが大量生産・大量消費の体制だったとすれば、ポストフォーディズムの特徴は「オンデマンド生産」や「リーン生産体制」といわれるような、市場の需要に柔軟に対応する生産体制です。

 このような生産体制の移行にともなって、「働き方」のイメージにも変化が生じたといいます。かつての黙々と働く労働から変わって、柔軟に対応するため活発にコミュニケーションを取ることが求められるようになります。

 そうすると、フォーディズム体制下では労働者以外の「本来の自分」や余暇に属すると考えられていた人間的なコミュニケーション能力が、今度は労働そのもののための重要な能力、もしくは商品そのものになるというのです。その結果、労働している自分と本来の自分という区分はなくなり、「労働している自分が本来の自分」ということになります。

『3月のライオン』から読み取る「働くこと」の現在

 このような前提知識や概念を駆使して、河野先生はさまざまな物語を批評していきます。ここでは、羽海野チカ氏の『3月のライオン』に関する議論を一部紹介してみましょう。

『3月のライオン』は、主人公の桐山零という若いプロ将棋棋士の日常生活と心理的な成長を描いた漫画作品です。零は幼少期に家族をなくし、孤独の中で複雑な感情を抱えながら将棋の世界で生きています。そんな中、零は隣に住む川本家の三姉妹と出会い、交流を通じて少しずつ孤独を克服していきます。

 零は中学生のときにプロ棋士になったため、高校に進学していませんでした。人よりも早くから「仕事」をしていたわけです。ですが、さまざまな人と関わるうちに「普通」の生活を望むようになり、失われた(諦めた)はずの青春を取り戻すため、一年遅れて高校に編入します。このエピソードは、零の人間的成長を感じさせるものですが、河野先生は仕事や労働の観点から異なる解釈を示しています。

 河野先生によれば、零が高校に行くのは「人生」を取り戻すためだという解釈は、フォーディズム的前提に立っているのだといいます。フォーディズム労働とは「疎外された労働」であり、「疎外」とは「自分ではなくなること」です。この立場からは、棋士である自分は「労働者としての自分」であり、「本来の自分」はどこか別にいるのだと考えられます。だからこそ、将棋から逃げ出し、高校に編入するのは「本来の自分」を取り戻すためであると説明できます。

 ところが、作中で描かれる零と野球少年のやり取りを見ると、このように解釈することは困難だと河野先生は考えます。零は同年代の野球少年からなぜ高校に編入したのかと問われ、「『逃げなかった』という記憶が欲しかったんだと思います」と答えています。この返答に対して野球少年は、自分がプロ野球選手になるために逃げずごまかさずに練習した記憶になぞらえて理解し、零はそれで「伝わった」と考えます。将棋から「逃げない」ために、高校に編入したという零の言葉。河野先生はここに着目し、仕事や労働とは別のものだと思われがちな「人格の完成」が、いつの間にか仕事のための能力になってしまっているという逆転現象を読み取ります。

 零と少年とのやり取りでは、高校へ行くことが将棋から逃げるどころか、むしろ棋士として完成するためになってしまっています。棋士という「労働者としての自分」から逃げ出して「本来の自分」を探しに行くのではありません。棋士として「逃げない」ために、棋士としてより成長するために、失われた(諦めた)はずの青春を取り戻そうとするのです。

 ここで行われているのは、「棋士という労働者としての自分」と「それ以外の自分」という区別をなくし、すべてまとめて「本来の自分」にしてしまうという手続きです。河野先生はここにフォーディズムからポストフォーディズムへの移行と同様のものを読み取ります。

 零にとって将棋という仕事は、もともとは「本来の自分」ではなく「労働者」としての自分が行う労働でした。しかし、ポストフォーディズム的な現在の状況において、実はそれは何かが欠落してしまっている、つまり将棋しかできないという「将棋人間」ではもはや通用しないということです。

 そこで、高校に通って人間的成長を取り戻すことにより、その欠落を埋めようとする。零は将棋から「逃げない」ために、あえて「普通」の生活を送ろうとするのです。

 ここで描かれているのは、「職業スキルと人間としての力との間の区別が無効化されている」ことだと河野先生は指摘します。『3月のライオン』は将棋というフォーディズム労働が、コミュニケーション能力などを総動員したポストフォーディズム労働へと変わっていくプロセスを描いているというのです。

 今回は『3月のライオン』の批評分析を取り上げましたが、本書には他にも興味深い批評が多く含まれています。いま働いている方はもちろん、これから働くことになる方にもおすすめできる一冊です。一度手にとって、「働くこと」の意味と現実について考えてみてはいかがでしょうか。

<参考文献>
『はたらく物語 マンガ・アニメ・映画から「仕事」を考える8章』(河野真太郎著、笠間書院)
https://shop.kasamashoin.jp/bd/isbn/9784305709981/

<参考サイト>
河野真太郎先生のツイッター(現X)
https://twitter.com/shintak400

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