●政治家の大切な仕事は、自国を卑屈にしないこと
皆さん、こんにちは。
古代のローマに生きたギリシャ人、プルタルコスはその有名なエッセイ集『モラリア』の中で、「政治家の大切な仕事は何か」を問い、「いかなる外国に対しても、自らの国を必要以上に卑屈にさせず、足に枷(かせ)をかけた上に、首まで軛(くびき)に差し出す事態をつくらないことだ」と、明快に述べています。
このプルタルコスのひそみにならえば、大事・小事にお構いなく、歴史を含めた全てのことについて特定の外国の国々などに判断を委ねたり、判断を任せっぱなしにして、自らの国益をまひさせ、歴史解釈に臆病になることによって、結局は国や自分の政治生命をすっかり失ってしまう人々が、歴史上にはいました。
日本においても、そうした人々がいないとは限りません。日本の戦争責任や歴史認識を問題にするときに、いつも外国の顔色をうかがうような人たちです。こうした人々には、ドイツのリヒャルト・フォン・ワイツゼッカー元大統領の演説を持ち出す人たちが非常に多いのが特徴です。プルタルコスの言葉を借りるならば、そこでは中国や韓国が日本に望んでいる以上に、彼らを「自分たちのご主人さまに祭り上げてしまう」。こうした人々が全くいないとは限らないのが、まことに残念なことです。
戦後70年にあたって、こうした点を私なりに改めて考える機会がありました。元ドイツ大使であり、長い間練達の外交官として日本外交の前線にいた、現在の中東調査会理事長、有馬龍夫氏の回顧録『対欧米外交の追憶』を読む機会があったからです。
●元ドイツ大使が語るワイツゼッカー演説の真意
有馬さんは、回顧録の中でワイツゼッカー演説について大変興味深い指摘をしておられます。それは、ワイツゼッカー演説のどこをどう探しても、ナチスによるホロコーストについての謝罪やそれに類した表現をした箇所が見当たらないという事実です。これは、まことに私たちがいつも感じていたことなのですが、ドイツ大使であった人から改めて語られたということです。
ワイツゼッカー元大統領は、すこぶる明快に次のように語っています。「民族全体の罪、もしくは民族全体の無実というものはない」と。罪や無実は集団的なものではなくて、個人的なものだとはっきり明言しているわけです。つまり、現代のドイツ人は、自分が生まれてもいない時代、あるいは自分が判断力を持たない小さな子どもであったような時代について、罪を告白することはできないというのが、ワイツゼッカー元大統領の指摘でした。
キリスト教の立場とも関連してきますが、有馬氏の以下の解釈は正しいと思います。
罪を告白したり、罪を謝罪するときの「告白」は、神の許しを請うことですから、他人の罪を別の人間が告白するいわれもないし、たとえナチスの党員といえども、それは個人が起こした罪です。すなわち、そういう個人的な行為である以上、それを直接犯したわけではない今のドイツ人やドイツ国家が謝罪する必要がない。ワイツゼッカーはそのような立場をすこぶる明快に示しているのです。
●ドイツ人の過去に対する責任とは何なのか
ワイツゼッカーは、ドイツ人の過去に対する責任を認めています。しかし、それが何なのかは、どうもよく分かりません。彼がナチスの犯した罪状を非常に凝った表現で紹介していく、やや冗長な演説の中には、確かに「過去に目を閉ざす者は、結局のところ現在に盲目となる」という、しばしば紹介される有名なくだりが出てきます。
しかし、この表現が何を意味するかというと、有馬氏の指摘によるまでもなく、「ナチスの犯罪を心に刻んで記憶せよ」と言っているわけで、ドイツという国家ましてやドイツ人の責任や謝罪を明示的に認めたのではないことに注意する必要があります。
「日本人は戦争に対して反省していない」、あるいは「さまざまな残虐な行為について謝罪もしていないではないか。ワイツゼッカーを見習え」という言説が、しきりに聞かれます。近隣諸国、特に中国と韓国はいつものように持ち出しますし、日本の国内にも一部には、このワイツゼッカーの指摘を引く人たちがいます。しかし、結局のところ、彼は謝罪やドイツ人の責任というものを全体として認めているのではないことに、注目する必要があります。
しかも、その後にすぐ「非人間的行為を心に刻もうとしない者は、また新しい感染の危険への抵抗力を持たない」と述べていますが、これも前後の関係からすると、忘れると同じような犯罪を犯しかねない、ナチスのように再犯しかねないという、一般的なメッセージを出したものではないかと、有馬さんの今回の書物は指摘しているのです。
●未来の子孫に枷と軛を負わせないための装置
いずれにしても、ワイツゼッカー演説...