●「中国の夢」が行き着くのは、東アジア共同体の構想だ
もちろん中国の中にも、第2話で取り上げた趙汀陽さんの議論に対する直接的間接的反応、批判的な反応があります。例えば上海の許紀霖さんという方は、新しい天下主義、「新天下主義」と言っています。現在の「中国の夢」とは、ただ富んで強くなる「富強」の点ばかり強調する民族復興の抗争と受け取られているのではないか。そこには、批判的な契機が十分に練られていないのではないか。そういうことを言います。そこで、彼は何と言うかというと、もし今、中国が普遍を語り、新しいディスコースの権利を手に入れていくならば、中国が自らを反省しながら、しかも中国の外と連携しながらやっていくしかないのではないか。こういう言い方をしています。
彼が言うのは、共に享受する普遍性です。中国だけではなく、日本も韓国も台湾も、あるいはペリフェリーもそうです。それらが共に享受する普遍性を目指さなければいけない。中国だけが中心にいて中国的な普遍性を主張しても、誰もそれは納得をしないし、広がっていかない。それでは全く普遍的ではない。こういう言い方をしています。
こう考えると、この、共に享受する普遍性が目指す「普遍」とは、当然ある種の東アジア的な共同体の構想につながっていきます。国民国家を簡単になくすことはできないが、それを前提として、来るべき東アジア共同体を考えた上での普遍性になっていかないといけないのではないか。これはなかなかに大胆な主張だろうと思います。彼はこの構想を指して「東アジア運命共同体」とまで踏み込んで述べているので、それがどこまで受け入れられるのかと思いますが。
●「韓国」と「儒家思想」から見た中華的な普遍
この考えは、韓国の白永瑞(ペク・ヨンソ)先生も共通して持っています。単純に中国的な普遍を主張した場合、例えば韓国がそこから抜け落ちる可能性がありますね。韓国の持っている、ある意味で二重に周辺化されてしまっている歴史、すなわちヨーロッパからも周辺化されるだけではなく、東アジアの中でも周辺化されてきた。「中国の夢」ではその問題をきちんと考えることができない。そのような普遍であっては、やはりいけないのではないか。来たるべき普遍とは、韓国のような経験をも包み込むような、そういう普遍でなければいけないのではないのか。こういったことを言っています。
そうすると、東アジア共同体がここでも再び出てきます。中国が語る中国的普遍でもないし、あるいはかつて日本が語った日本的普遍(大東亜共栄圏がそうです)でもない。そういったものではない、東アジアの共同体が語る普遍にまで、われわれは一歩も二歩も踏み込んでいかなければいけないのではないか。こういうことを言っています。これはそう簡単ではありませんが、哲学的なアプローチとしては、非常に重要な貢献になっているだろうと思います。
その他にも、儒家研究をしている人たちからは、「天下というよりも、まだ王道と言った方が、現在、普遍を語るにはいいのではないか」と言われています。この王道も、昔の王道をただ繰り返すというわけではなく、ある種の新しい王道を問題にします。実は、儒家的な概念は、現状肯定に向かうだけではないのですね。現状を批判する側面もあります。例えば、今の統治は、全く徳治(徳による統治)になっていないではないかという形で、統治に対する一種の批判をすることができます。そのような儒家思想の持っている批判的な側面を含み込んだ王道を構築しようとする人々もやはりいます。
その人たちも、やはり東アジア共同体の建設に対して、儒家に基づくものを提供し、儒家思想の方を豊かにすることもできるのではないのか。そして、実は後から形成されてきた東アジアという枠組みも、そこに儒学が接着剤として使えるのではないか。こういう言い方をしています。
●近代日本の「失敗」の共有が、普遍化に貢献する
このように、「普遍」を今、どう語るかに関して、いくつかの異なるアプローチがあります。私たちがここで考えるべきは、中国の現政権が主張している「中国の夢」という「普遍」の背景がどういうものであるか、そして「中国の夢」が、かつて日本の夢がアジア人の悪になったような、悪に陥らないような方策を、共に考えることだろうと思います。
そのディスコースの権利を取り返すこと、それ自体を否定することはできないだろうと思います。人のふんどしを借りて相撲をとるだけではいけないという思いは、東アジアの人々にはきっとあるだろうと思います。しかしだからといって、例えば人権なら人権という概念を捨て去っていいわけではありません。
そうではなく、それをより普遍的なものに変えていくことへとつながっていかなければいけないのだろうと...