●祖国を発見したのはローマ人ではなかったか
前回は、小さな都市国家から始まって、大きな覇権を握り、世界帝国を築いていったローマ人には、宗教的な誠実さ、敬虔さ、ラテン語では「ピエダス」があったというお話をしました。それから、ピエダスとは別に、慎ましさを意味する「レリギオ」という言葉があります。これは「レリジョン」、つまり宗教の語源になった言葉です。この言葉にシンボリックに表れているように、宗教的な敬虔さや慎ましさがローマ人の大きな特徴だったのです。しかし、ローマ人にはもう一つの特徴があります。今回は、それを取り上げたいと思います。
私たち現代人は、国家や祖国という言葉を当たり前のように口にします。そうした言葉に反感を持つ風潮も無きにしもあらずですが、常識的に考えれば、国家や祖国を基本に考えなくてはならないでしょう。さらにグローバル化が進み、国家や国境が本当に意味をなさなくなれば別でしょうが、そうなるには、少なくともまだ数百年を要するのではないかと思われます。私たちが生きている限りでは、祖国を基本にして考える必要があるのです。
では、祖国や国家という意識や観念が歴史の中でどのように生まれてきたのでしょうか。そのことを考えるとき、ローマ人の思ったこと、考えたこと、それに基づいて行動したことを振り返ることには意味があります。一言でいってしまえば、“祖国”というものを発見したのはローマ人ではなかったかと思うのです。
●ローマ人は自分たちの支配地を拡大していった
これは、それ以前の時代と比べると分かることですが、例えば、ダレイオス大王の指揮の下、何十万人のペルシャ人たちが動員されてギリシャに攻め入ったことがありました。そのペルシャ人たちは、果たして祖国のために戦っていたのでしょうか。そうではありません。彼らは、国王から強制的に集められていたのです。それを拒否したら、自分自身や家族が大きな犠牲を払わなくてはなりませんでした。つまり、上から圧力を受けて、いやいや動員されていたのです。
ギリシャのポリス(都市国家)はペルシャなどよりもずっと小さく、例えば、ペルシャ戦争でペルシャ人と戦った際、アテネには30万~40万人ほどの人口しかありませんでした。成人男子はおそらく10万人弱くらいで、後は老人、女性、子どもでした。そうしたところでは、確かに国を守るという意識が芽生えていたかもしれません。しかし一方で、彼らは人口が増えると遠くに植民しました。例えば、アテネからシチリア島に植民したとしましょう。その場合、植民地そのものが新たな一つの国家になることが普通でした。アテネの従属国ではなく、あくまでも一つのポリスになるのです。ギリシャ人には、自分たちの小さな国家を守る意識はあったかもしれませんが、それはローマ人の祖国への想いとは違うものでした。
ローマ人がなぜ祖国を発見したといえるのかというと、それがよいことかどうかは別として、祖国の防衛を基本としながら、それ以上に自分たちの支配地を拡大していったからです。ローマ人たちは、ギリシャのように植民地を新たなポリスにするのではなく、小さな国家をどんどん拡大していくという方法を採ったのです。
現代では、そうした覇権主義的、拡大主義的な考え方は危険思想視されるのですが、それはあくまでも帝国主義を経て、20世紀に大きな戦争を二つ体験した上での観念です。19世紀までは、拡大し、活性化していくことでしか、国家や祖国はあり得ませんでした。歴史上、国王や皇帝のためではなく、自分たちの国家を守り、国家を活性化し維持していくという意味での祖国を強烈に意識したのは、ローマ人が初めてではないかと思います。それが19世紀まで続いたのです。
ローマが小さかった頃は、ローマをつぶそうとする国家が周りにたくさんありました。そこで防衛しているだけでは、いつまでも安定した社会は築けません。古代、前近代は、少し勢力が大きくなると、他国に攻撃を仕掛けることが当たり前でした。
そうした状況の中で国家を安定した状態に持っていくためには、ある程度の攻撃も必要だという「専守防衛」のような考え方が、ローマ人にはあったのです。そのことが、ローマ人が祖国を強烈に意識する端緒になったと考えられます。前回大きなテーマとした「宗教的な敬虔さ」も、祖国意識の表れの一つではないかと思います。つまり、ローマ人は数において優れているとか、ずる賢さで優れているわけではなく、自分たちのメンタリティとしてローマ人としての敬虔さを持ち、単に領土としての国家を維持するのではなく、祖国の発見の中でローマ人のメンタリティを維持していかなければいけないということで、彼らが祖国というものを強烈に意識していったことが、世界史の中では恐らく最初の出来事ではなかった...