●『老子』を読むと、安堵感が生まれる
今回、私の長年の希望、願いが一つ叶いました。私は25歳の時、タイのバンコクで2頭の水牛の角に串刺しにされ、それこそあの世へ行って帰ってくる、というようなことを繰り返すことになりました。かろうじてこの世にまた帰ってくることができたのですが、それは奇跡的だと皆さん仰ってくださいます。
その頃、在留邦人の方が、私に本を差し入れてくれました。病院で私が退屈しているだろうと思われたのです。最初は、元気が出るようにと、威勢の良い本を貸してくださったのですが、すぐに本の種類も尽きてしまったのでしょう。あまり思い悩むような本であってもいけないということで、差し入れてくれた本の中に『論語』と『老子』が入っていました。ほとんど解説もない、原文そのものの『老子』でした。
しかし、これがとても身にしみて、不思議と読み進めることができました。あれほど書物を熟読したことはありませんでした。毎日、毎時間、『老子』を開いて読んで過ごしました。なぜでしょうか。『老子』を読めば、心が落ち着くからです。死の恐怖や今後の不安など、消極的な考え方ばかりが押し寄せてきていたのですが、『老子』を読むと、どことなく安堵感、安心感が生まれたのです。
●『道徳経』を50年間、何百回、何千回と読んできた
そこで私の念願は、私を救ってくれた『老子』という本を、皆さんに分かりやすく解説した本を出す、ということになりました。難解だと言われることの多い『老子』を、皆さんによく親しんでもらえるようにしたい、と思っていたのです。しかしこれまで、なかなかタイミングが合わず、それは叶えられずにいました。ところが、25歳のあの出来事以来、50年目にあたる今年、念願の本を出すことができました。
それが『ビジネスリーダーのための老子「道徳経」講義』です。私は『道徳経』という本を50年間、何百回、何千回と読んできましたが、飽きることはありません。その時の自分の心境によって、「こんなことが書いてあったのか」と、いつも新鮮に読むことができる本なのです。さらに、真理というものは心を打ちます。悩みや問題のヒントとなり、その時々で、私を助けてくれました。20年、30年と読んでいくと、「こういう風に読めば、もっと面白いのではないか」と、新たな読み方が生まれてきて、なおさら面白く感じられたのです。どれほどお伝えできるか分かりませんが、こうした思いを持ってこの本を書きました。
●「道」という存在はけちくさくない
解説を書いている間に、このような質問を受けることがありました。東洋思想の禅には、禅学と禅道があります。大学などでは禅の講義がありますが、それは禅学です。しかし本来、禅は実行することに意味があります。これは禅道と言われます。そこで、老荘思想にこうしたものはないのか、という質問です。
実は、あります。今、50年間読んできたと申し上げましたが、より正確に言えば、老子が説いた宇宙の根源である「道」という存在に、50年間助けられてきました。導かれてきたのです。迷ったときは「道」という存在に問うと、新たなアイデアがどんどん出てきます。
この「道」という存在は、けちくさくありません。儒家の思想のように、例えば、身を正して努力をした結果が良ければ、望みを聞いてやろう、などと条件が付かないのです。私たちが望めば、純粋に「分かった」と望みを聞いてくれます。老荘思想は母系の学ですので、その意味で「道」は、あたかも肝っ玉母さんのようなのです。故郷にいる肝っ玉母さんに導かれるようにして、私はずっと人生を歩んできました。60歳になってからも、日々愉快に暮らしていられるのも、このためでしょう。
●学と道の両方が合わさってはじめて、老荘思想の神髄が分かる
そこで、私が実践してきた老子道についても書いた方が良いのではないか、と思い立ったのです。禅学に対する禅道と同様に、老子学に対する老子道です。こうしたことを書く必要があると、『ビジネスリーダーのための老子「道徳経」講義』を半分ほど書いたところで急遽思い付きました。そこで出版社に相談したところ、賛成していただき、もう一冊出版することになりました。それがこの『人生に迷ったら「老子」』という本です。
この2つの書物の関係は、『老子「道徳経」講義』が禅学にあたる老子学、『人生に迷ったら「老子」』が実践の禅道にあたる老子道です。学と道の両方が合わさってはじめて、『老子』という老荘思想の神髄が完璧に分かるようになります。
●これからは『老子』、老荘学、老荘道の時代だ
これまでは、『論語』に代表されるように、「こうすべし」、「ああすべし」、「こうしてはならない」といった、聖人君子の学としての儒家の思想の方が、どう見ても強かった...
(右)『ビジネスリーダーのための 老子「道徳経」講義』
(田口佳史著、致知出版社)