●戦後5年、東京の空にB-29が帰ってきた
戦後、私は昭和21(1946)年に国民学校高等科を卒業して、町工場に働くようになりましたので、学歴は中卒でしかありません。自分で自分がかわいそうに思える青春の中で、とにかく読むことは好きでした。だから、廃品回収業の友達の家へ行っては、バラバラになった『少年倶楽部』などを拾い集めてきてはむさぼり読んで、活字に親しむことを覚えます。そこから文章書きになりたいなという気持ちに駆られました。
そして、17歳から18歳にかけて、私がどうしても書いておかねばならない状況が必然的にやってきました。それは昭和25年に始まる朝鮮戦争です。もちろん、日本が手出しをした戦争ではありません。日本は連合国軍の占領下にあったからです。
連合国軍といっても、主体は全部アメリカ軍です。在日米軍が全て朝鮮半島へ出撃していく中、私が最も気になったのは、あのB-29がマリアナ諸島ではなく、今度は東京の横田、埼玉県の入間などという米軍基地から連日のように朝鮮半島へ爆撃に行く日を迎えたことです。
その爆撃の下がどうなっているか、容易に想像が付くではありませんか。でも、食うや食わずの時代です。アメリカが戦争をするために必要とする諸物資を本国から取り寄せるゆとりはありませんから、閉鎖状態になっていた日本の軍需工場に発注したことから、「特需景気」というものが巻き起こりました。
●300枚の「生い立ちの記」を書く
日本はこの特需景気によって、焼け跡、闇市の時代を脱出することになるのです。しかし、B-29の爆撃の下が気になって気になって、何かできることはないかと思い詰めた私は、「そうだ、文章を書くことならできるかもしれない」ということで、今でいう「自分史」を書こうと思いました。
当時は「生い立ちの記」と呼ばれていましたが、300枚を目標にしました。30枚くらいなら誰でも書けるかもしれませんが、300枚は決して少ない枚数ではありません。当時、私は宮本百合子さんという作家が17歳で『貧しき人々の群』を書いているのを読んだのです。17歳から18歳になりかけていた私は、「彼女がこれだけのものが書けたとするならば、私だってもしかして」という思いで、そう苦労せずに300枚の記録を書き終えました。
その記録は、戦争中の貧困と食うや食わずの食糧難、その後、生きるか死ぬかの空襲の日々の連続などなどで、そんじょそこいらの並の体験ではなかったと思います。それをきちんと書くことができたとすれば、自分自身をもう少し突き詰めることができるだろう、劣等感にさいなまれた青春を超えられるかもしれない、という思いです。そして、もしも誰か読んでくれる人がいたら、その人はもう一度、日本の戦後の原点に立つことができるのではないかという思いもありました。一石二鳥ですね。
20歳の時にその原稿が、ある人の目に留まり、1冊の単行本になりました。そうすると、書店に並んでいる私の本を見た濱本浩さんという作家が、わが家を訪ねてきました。その後、レストランに招いてくれ、「君の未来に乾杯だ、君は書けるよ」と言われるのです。今考えれば大変なおだてだと思いますが、若かったせいで、まんまとそのおだてに引っ掛かってしまいました。
「書けば、書けるのかもしれない」という怖いもの知らずで、20代の頃はたくさんの恋愛小説を書きました。ですから、私は青春小説、恋愛小説でスタートしたのです。今では早乙女勝元というのはもっと硬派の、戦争や平和の問題の専門家のように受け取ってくれる人が多いのですが、そうではありません。当時は青春期でしたから、自分の思い描く女性とのさまざまな夢物語を書くことで自分自身が支えられ、小説家の道を志したのかなという気がします。
●「東京空襲を記録する会」を結成し、大資料集全5巻を編纂
そうこうするうちに1970年になりました。1970年というのは、分かりやすく言ってしまうと、戦争が終わって25年目ということです。四半世紀たっています。私はもう30代で、かなりの冊数の本を出していましたが、自分の筆力では東京大空襲を世論に訴えることなど到底できないと分かってきました。
少し年上の作家で吉村昭氏のような筆力があれば別ですが、こちらは基礎を積んでいないので、そんな能力はありません。大学はおろか、高校も出ていないのですから、とても無理なのです。
それならば、組織的に東京大空襲を記録化する運動を、と考えて、「東京空襲を記録する会」をつくりました。大勢の文化関係者がまだ生存していらっしゃり、みんな戦争の体験者でした。そういう人たちに呼び掛け人になってもらい、東京都に陳情して、都の助成もいただきました。当時の東京都知事は美濃部亮吉さんでしたから、そういう運動に比較的理解があったものと思われます。
...