●女学生の沖縄戦を伝えるために始まった資料館
「ひめゆり平和祈念資料館」は、「ひめゆり学徒隊」の生存者と同窓会の方が自分たちでお金を出し合い、全国の方々にも寄付をお願いして建てた資料館です。
ひめゆり学徒隊の生存者たちは、自分だけが生き残り、亡くなった友達に申し訳ないという思いや、あの地獄のような体験を思い出したくない気持ちから、長い間、自分の体験を語ることはありませんでした。
しかし、戦後40年がたち、沖縄戦が忘れられてしまうような状況になって、なんとか後世に沖縄戦のことを伝えないといけないと考え、この資料館をつくりました。その後、数十年にもわたり、自分たちの手で運営をやってこられました。
彼女たちは資料館をつくるに当たり、自分たちの戦争体験を見直しました。向こう(資料館の入口付近)に何のための資料館なのかを語る「設立について」という文章が展示されています。そこに資料館を「建てた思い」が記されています。
●普通の学園生活に戦争の影響が表れてくる
では、展示を見ながら説明いたします。
映像にあるのは「朝礼」の様子です。戦前には1000名ほどの在校生がいました。同じ敷地内に沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校という二つの学校が設置されたのですが、両校は姉妹校のような間柄の学校でした。
「ひめゆり」の由来は、学校の愛称からきています。花の名前の姫百合(ひめゆり)ではなく、「おとひめ」(沖縄県立第一高等女学校の愛称)と「白百合」(沖縄師範学校女子部の愛称)が合体してできた名前です。全県下から優秀な生徒が集まるため、入学が難関とされる学校でした。才女たちが集まる学校といっていいでしょう。
那覇のキャンパスは、那覇の安里(あさと)というところにあり、現在モノレールの「安里」駅が置かれている近辺に学校がありました。校内には図書館、講堂、体育館などの他に、戦前にはすでにプールまであり、非常に恵まれた施設を有する学校でした。
師範学校は先生になるための学校、高等女学校は高等教育を受けるための学校ですが、生徒たちは今と変わらないような部活動にも励みました。バスケットボール部やテニス部などの体育会系の活動もあれば、ブラスバンド部や美術部などの文化系の活動もありました。学校行事として運動会や遠足、合唱祭、学芸会などが行われました。休み時間には友だちとおしゃべりをしたり、放課後には噂話をしたり、先生にあだ名を付けてみたりと、本当に今と変わらないような学園生活を送っていたのです。
日本が戦争を始めると、その影響はもちろん学校にも表れてきます。食糧増産のために勤労動員作業に駆り出されたりしたのですが、1942(昭和17)年になると、いよいよ兵隊の数が足りないということで学校の先生が召集され、中国や南洋の戦線に送り出されました。
映像にあるのは、当時の学園生活の写真です。こちらは、沖縄戦の約1年前、1943(昭和18)年3月の写真で、真ん中にいらっしゃるのは校長先生です。校長先生を囲む、あるグループの写真ですが、1年後にまさかあのような悲惨な出来事が起こるとは誰も予想しておらず、皆、笑顔で写っています。この中から、校長先生を含めて21人が亡くなっています。
●女子にも身体の鍛錬が強要された戦時下の教育
写真を見ると分かるように、そこには今と変わらない学園生活がありました。しかし、1941(昭和16)年12月以降、戦時体制がますます強くなります。アメリカとの戦争が始まったからです。中国との戦争が始まった頃、日本はまだ勝ち戦という状況だったのですが、これ以降いよいよ戦局が悪化して、学校の生活にもさらに戦争の影響が表れるようになります。
例えば、先ほどお話しした食糧増産もありましたし、「義勇託児所」も行われました。夏休みや春休みに、男女を問わず農家へ行くのです。当時の農家では、男性の働き手が皆、召集や徴用を受けて家にいないので、おじいさん、おばあさん、お母さんたちが農作業をやらないといけません。その間、幼い子どもたちの面倒を見る人がいないので、女学生たちに保育所をつくらせて、そこで子どもの面倒を見させたのです。
男子生徒(中学生)はもちろん戦闘の訓練をさせられましたが、女子生徒も戦時訓練のため、「閲兵分列行進」という兵隊のような行進の訓練をさせられました。また、「防火訓練」という、空襲があったときに対応するための訓練を行ったり、「十七里行軍」という、一昼夜で68キロの距離を女子生徒たちに行軍させて学校に戻ってくるようなこともありました。来たるべき戦争に備えて、男子生徒はもちろん女子生徒も体を鍛えることが課されるようになったのです。
この展示室は「ひめゆりの青春」ということで、女学生たちの青春の一コマから、戦争へと...