●戦場に連れ出されたひめゆり学徒隊の活動
ひめゆり学徒隊の生徒たちの学校は、那覇の安里(あさと)というところにありました。沖縄陸軍病院は、そこから南東に5キロ離れた南風原(はえばる、現在は南風原町)というところです。丘にトンネルのような壕を30から40も掘って、その中にベッドをつくって病院としていました。地上の建物は攻撃されて危ないので、地下に潜って病院をつくったということです。
その少し手前(北)のところには首里城がありますが、その地下深くには、沖縄の戦闘を担当する第32軍司令部壕がありました。そこから日本軍各部隊を指揮して、戦闘していくことになります。
それでは、病院壕を紹介する前に、病院での活動の様子をお話ししていきます。
こちらは当時病院で使っていた医療器具です。アンプル(注射用の薬液などを入れるガラス容器)、メス、ピンセット、注射器などが並んでいます。続いて、こちらの方は主に生徒たちが看護で使っていたもので、左下は「飯上げ」に使っていたおひつです。ご飯をもらいに行くのに使っていたので、「飯上げ樽」と呼んでいます。水筒や毛布があり、右上は空き缶の尿器です。重症の患者たちは自分で大小便をすることができなかったため、そうした下の世話をするのも15歳から19歳の女生徒たちの仕事になりました。
そして、こちらは1話目でお話ししたように、2~3週間したら学校に戻れると思っていた女生徒たちが持っていた、筆箱や下敷き、そして手鏡や弁当箱など身の回りの品です。こういうものをリュックに詰め込んで、彼女たちは病院に向かったのです。
●病棟壕で体験した壮絶な看護の実態
こちらは、病院壕を再現したジオラマです。今は入口部分しか再現していませんが、短いものでも10メートル以上、長いものだと70メートルほどトンネルのような壕を掘り、ベッドをしつらえて、病院の病棟壕としました。
前線でけがをした兵隊たちは、専門の手術場壕で手術や治療を受けてから病棟壕に運ばれてきます。しかし、負傷兵の多くは前線で止血のために患部を強く縛るので、ほとんどの部分が病院まで運ばれてくる間に血が流れなくなる壊死の状態となって腐ってしまい、そのまま切断する方も多数いたそうです。治療では、一通り麻酔はしたようですが、今のように完璧に効くわけではありません。そのため、手術用のノコギリで骨を切るときに、大の男が非常に暴れます。それを押さえるのも、また切断された手や足を捨てに行くのも女生徒たちの仕事でした。最初は恐がっていましたが、後からはそういうことも平気でできるようになったそうです。
また病棟壕に配当された女生徒たちは、先述したように負傷兵の便や尿などの下の世話や、水やご飯をあげるといった食事の世話をしていました。攻撃がどんどん激しくなり、患者があふれてくると、軍医や看護婦さんの治療がなかなか行き届かなくなり、病棟へ診に来るのは3~4日に1回になっていきました。その間に、傷口に巻いていた白い包帯が血と膿でどす黒くなり、その中からうじ虫がわいてきます。傷口にハエが卵を産み付けて、そこからわいたたくさんのうじ虫が血や膿を食べるようなのですが、そうしてうじ虫が動き回ると傷口を針で突き刺しているような痛さだといいます。あちらこちらから「学生さん、うじ取ってくれ」という声が聞こえてくるので、そこへ行って小枝などで取り払うのも女生徒たちの仕事でした。
●助からない負傷兵の埋葬と戦後の苦しみ
こういう状況の中ではほとんどが治ることもなく、たくさんの兵隊が亡くなっていきました。中には、故郷に奥さんや子どものいる兵隊もいれば、お父さんやお母さんのいる若い兵隊もいました。皆、故郷から離れて戦場にやってきて、このようなところで治療も満足に受けられないまま、どんどん亡くなっていったのです。
亡くなった後は埋葬しないといけないのですが、それも女生徒たちの仕事でした。男性の死体は女生徒二人でもなかなか抱えきれません。そこで、兵隊がそれぞれ持っていた軍用毛布にくるみ、二人がかりでなんとか引きずって壕の外に出したということです。
最初のうちは兵隊が掘ってくれた穴に埋めていたようですが、攻撃が激しくなると、いちいち丁寧に埋めることができなくなりました。アメリカ軍が爆弾を打ち込むと、地面に大きな穴がたくさん空くので、その穴に投げ入れて、死体の埋葬を行うようになっていきました。最初、生徒たちはとても驚いて、亡くなった人を投げ入れるなど到底できないと思っていたようですが、そんなことも言っていられなくなり、その後は平気でできるようになっていったといいます。また、その穴に爆弾が落ちると、亡くなった兵隊の手足が飛び散ったりもしたそうです。
そういう状況だったのですが、何十年後かにそ...