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ひめゆり学徒隊の生徒たちが戦場で体験したこと

ひめゆり学徒隊と沖縄戦、その記憶と記録(2)陸軍病院への動員

普天間朝佳
ひめゆり平和祈念資料館館長
概要・テキスト
ひめゆり学徒隊の構成員は15歳から19歳の女学生。今と変わらない学園生活を送っていた彼女たちが、戦争が始まると戦場の病院に駆り出される。そこに建物はなく、地下の壕が病棟となり、手術室となった。薬も人員も不十分な中、彼女たちが体験した試練とはどんなものだったのか? ひめゆり平和祈念資料館館長の普天間朝佳氏に、館内に展示された資料などを見ながら解説いただいた。(全3話中第2話)
時間:12:20
収録日:2018/06/28
追加日:2018/08/01
≪全文≫

●戦場に連れ出されたひめゆり学徒隊の活動


 ひめゆり学徒隊の生徒たちの学校は、那覇の安里(あさと)というところにありました。沖縄陸軍病院は、そこから南東に5キロ離れた南風原(はえばる、現在は南風原町)というところです。丘にトンネルのような壕を30から40も掘って、その中にベッドをつくって病院としていました。地上の建物は攻撃されて危ないので、地下に潜って病院をつくったということです。

 その少し手前(北)のところには首里城がありますが、その地下深くには、沖縄の戦闘を担当する第32軍司令部壕がありました。そこから日本軍各部隊を指揮して、戦闘していくことになります。

 それでは、病院壕を紹介する前に、病院での活動の様子をお話ししていきます。

 こちらは当時病院で使っていた医療器具です。アンプル(注射用の薬液などを入れるガラス容器)、メス、ピンセット、注射器などが並んでいます。続いて、こちらの方は主に生徒たちが看護で使っていたもので、左下は「飯上げ」に使っていたおひつです。ご飯をもらいに行くのに使っていたので、「飯上げ樽」と呼んでいます。水筒や毛布があり、右上は空き缶の尿器です。重症の患者たちは自分で大小便をすることができなかったため、そうした下の世話をするのも15歳から19歳の女生徒たちの仕事になりました。

 そして、こちらは1話目でお話ししたように、2~3週間したら学校に戻れると思っていた女生徒たちが持っていた、筆箱や下敷き、そして手鏡や弁当箱など身の回りの品です。こういうものをリュックに詰め込んで、彼女たちは病院に向かったのです。


●病棟壕で体験した壮絶な看護の実態


 こちらは、病院壕を再現したジオラマです。今は入口部分しか再現していませんが、短いものでも10メートル以上、長いものだと70メートルほどトンネルのような壕を掘り、ベッドをしつらえて、病院の病棟壕としました。

 前線でけがをした兵隊たちは、専門の手術場壕で手術や治療を受けてから病棟壕に運ばれてきます。しかし、負傷兵の多くは前線で止血のために患部を強く縛るので、ほとんどの部分が病院まで運ばれてくる間に血が流れなくなる壊死の状態となって腐ってしまい、そのまま切断する方も多数いたそうです。治療では、一通り麻酔はしたようですが、今のように完璧に効くわけではありません。そのため、手術用のノコギリで骨を切ると...
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