●戦争の記憶を泥の中に埋もれたままにしてはいけない
ひめゆり平和祈念資料館館長の普天間朝佳です。よろしくお願いします。
資料館は、ひめゆり学徒隊の生存者と同窓会の人たちが力を合わせて、全国の方々にも協力をいただいてつくったというお話を、これまでしてきました。また、ひめゆり学徒隊の生き残った方たちは、戦後長い間、自分の体験を語ってこなかったという話もしました。
それは、話さなかっただけではなく、自分の戦争体験としっかり向き合ってはこなかったということです。なぜかというと、戦後がスタートすると、教員になったり、結婚したり、子育てをしたりという生活が始まって、とてもそうした余裕がなかったからです。
でも、資料館をつくることになったので、戦跡を回り、自分たちがいた壕の中に入って、遺骨や遺品を集めるという活動をしていきました。泥の中からは、展示室の映像で見ていただいたような学用品などが出てきました。それらを掘り出した時、彼女たちは「戦後長い間、自分たちの体験に向き合ってこなかったから、これらは泥の中に埋もれたままになっていた。このままだと、自分たちの体験も泥に埋もれて、後世の人にも知られなくなってしまう」ということに気付きます。そこで、世の中にきちんと伝えなくてはならないという決意が芽生え始めたのだと思います。
●自分たちを死へ追いやった「教育」への問い
資料館をつくるに当たっては、遺品や遺骨を集める他、お互いの戦争体験を聞き合って録音するという活動も始まります。彼女たちは戦場での体験だけではなく、「なぜ自分たちはあのように死に向かっていかなければならなかったのか。自分たちを死に追いやったのは何だったのか」ということを、考え始めるようになったのです。
戦争前の学校生活について調べたり、考えたりしていくうちに、自分たちを死に追いやった原因の一つは教育にあるのではないかと思い当たります。教育によっては、「人は命を何とも思わなくなる、あるいは死に向かわせるような教育がある」と考えると、教育がいかに恐ろしいものであるか。反語的にいえば、教育がいかに大切なものであるか。そう思うようになりました。
資料館では、大事な理念の一つとして、教育の大切さという意味で「戦争と教育」を挙げています。
●「知らない」ことの恐ろしさ、「知る」ことの大切さ
それから、もう一つ。あの戦争の時代にあっても、自分たちは本当の戦争を知らなかったということです。戦争映画で出てくるのは、日本軍が「勝った、勝った」と言われている戦争でした。日本軍は世界でも最強の軍隊だから、アメリカ軍と戦っても負けるはずがない。戦争はわずかな時間で終わり、自分たちは元の生活に戻れるだろう。彼女たちはそう思っていたのです。
でも、実は、そうではありませんでした。たくさんの大切な命が奪われて、たくさんの悲惨な、地獄のような体験が待っていたのです。
戦争が終わり、自分たちの体験を通して彼女たちが知ったことは、「知らない」ということがどんなに恐ろしいことであるか、ということです。これも反語的にいえば、「知る」ということがどんなに大切なことであるか、ということです。そう強く思うようになったということが二つ目に伝えたいことです。
●友達が死に、自分が生き残ったことへの後ろめたさ
三つ目に伝えたいことは、222名の生徒たちが陸軍病院に動員され、半数以上の123名が亡くなってしまいますが、生き残った99名の戦後は「生き残って良かった」ではなかったということです。
一緒に陸軍病院に動員されて、一緒に活動をし、休み時間には一緒におしゃべりをしていた友だちが、一緒に行動している時に爆弾や砲弾が落ちて、その破片などで犠牲になったのです。
すぐ隣にいた仲良しの友だちが亡くなって、自分が生き残ってしまったのはなぜなのか。その理由が分からない。自分だけが生き残ったことを単純には喜べず、仲の良かった友だちに申し訳ないという気持ちを抱かせるのです。
それは、生き残った多くの人が抱えている問題です。解散命令の時にけがを負っていた友だちも何名かいたので、壕を出る時にはその友だちを置いていかなければならなかった。あるいは解散命令後、砲弾の中を逃げ回っている時に、友だちが重傷を負って歩けなくなった。本当は後から迎えに行くという気持ちもあったけれども、アメリカ軍が迫ってくるので、結果的にはそこに友だちを置き去りにしてしまった。そういった体験を皆が持っていて、自分だけが生き残ったことに後ろめたさや申し訳なさを抱えたまま、戦後を生きてきました。
●「戦場のありのまま」を伝える資料館でありたい
遺族に対しての思いもあります。戦争が終わってまもなくすると、自分の娘が帰ってこな...