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西田幾多郎と父・髙坂正顕の師弟エピソード

過去から未来へ、京都学派の役割(2)髙坂正顕の思想と西田幾多郎の「永遠の今」

髙坂節三
公益財団法人 日本漢字能力検定協会 代表理事 会長兼理事長
情報・テキスト
髙坂正顕
カント研究の第一人者であり京都学派の中心的人物でもある髙坂正顕氏は、高校時代に西田幾太郎に出会い、ついには父の反対を押しきって京都帝大哲学科に進学する。正顕氏の三男・髙坂節三氏が語る、京都学派の系譜を知るうえで欠かせないエピソードの数々。(全5話中第2話目)
時間:12:06
収録日:2014/07/18
追加日:2014/09/08
≪全文≫

●幼少期を満州で過ごし、旧制四高で西田幾多郎と出会う


 この京都学派の思想と父の立場というものを、少し述べてみます。「世界史的立場と日本」を世に問うた京都学派の思想ということについては、先ほども少し言いました、歴史の研究を中心としていた鈴木成高さん、この方の確かおじさんが小島祐馬さんという京大の有名な中国の研究者だったと記憶していますが、この人を除いた西谷啓治さん、高山岩男さん、髙坂正顕の3名が西田幾多郎先生の哲学に憧れて思い悩みました。特に、倉田百三さんが最も強い影響を受けたという『善の研究』などの著書にひかれて、西田先生の指導を受けるために京都帝国大学(今の京都大学)の哲学科へ進みました。

 父の父は、原敬の子分だったのです。ところが、原敬に頼まれて、東京市から国会議員に立候補したところ負けてしまって、その後、逐電して満州へ行くのです。そして満州へ行くときに、僕からいえば祖父ですけれども、祖父は、その前に愛知県の碧海郡(現在の愛知県東部)の、今でいう市長のような役職である郡長をしており、そのときに親しくなった名古屋の芸子さんを連れて行ってしまったのです。ですから、その奥さん、つまり、僕のいうなれば祖母、本当のおばあさんは、一人で東京に残って、洗い張りのような仕事をしながら子どもを育てていったわけでして、この辺は泣かせる話なのですが、病気になってとても生きていけないということで、祖母は船で満州まで行って、祖父に「この子だけは頼む」と父のことを託して、それで、3日目くらいで亡くなったのです。当時の満州の病院、今もその病院はありますが、そこで亡くなったそうです。

 あとの女児は皆ちりちりばらばらで、父だけは満州に引き取られて、当時の満州につくられた第1号の中学校に入りました。そして今度、高校は金沢の旧制第四高等学校に行って、そこで西田先生の指導を受けたのです。


●父の反対を押し切って、京都帝大哲学科へ


 先ほど話したような流れがあって、実の母親はある意味で悲劇的な死に方をしました。祖父はあまり満州では成功しませんでした。祖父は父に政治家になってほしいということで東京帝国大学の法学部を受けろと言っていたのですが、そこで父は、祖父の意向に逆らって、内緒で京都帝大の哲学科に願書を出したのです。「自分を修められなくて、何でそんな政治家をやれるのか」というようなことを、最後に父と祖父とで激論などしたようです。

 西谷啓治さんが書かれたものを見てみますと、やはり西谷さんも、「当時の私の観念では、哲学をやるということは、半ば世捨て人になるのに等しいこと。一人で都落ちするような気持ちだった」と書いておられます。この西谷先生というのは、旧制一高から哲学のために京都帝大へ行ったわけです。そのような人が、当時は西田先生を慕って集まっていったということです。


●カント研究から、独自の思索を深めて『歴史的世界』を書く


 父は、この西田先生から、「誰でもいいから優れた哲学者の思想を一度は自分のものにせよ」というような指導を受けて、それならばということで、カントを徹底的に勉強します。つまり、20年近くカントの研究だけをやっていたのです。

 ですが、ちょうど昭和8年に、例の滝川事件が起こります。時の文部大臣は鳩山一郎で、京都帝大法学部教授の滝川幸辰の休職を強行しました。このことが大学の自治を踏みにじったとして、法学部教授全員が辞表を出したという異常事態でした。父も非常勤講師として歴史哲学を教えていたものですから、この事態がどうなるのか、また、国際連盟を日本は脱退する、軍部は台頭する、そうした中で歴史というのはどのように動いていくのか、ということを考えて、最初に雑誌『思想』に、「歴史的なるもの」という論文を発表します。

 父のメモを見ると、西田先生に叱られてもいいが、自分の勉強したこと、つまり、カントから初めて離れてこういうものを書いた。ところが、島崎藤村がこれを高く評価してくれて非常に意を強くした、というようなことが書いてあります。そして、その内容をさらに深めていって、『歴史的世界』という本を書きます。

 「歴史的世界は、単に物質的でもなく、また、観念的でもないと考えた私は、当然、歴史的中心をヘーゲルのごとくに理念の中に見出すことはできない、また、マルクスのごとく、経済的生産の内に求めることも許されなかった。歴史的世界は、唯物史観等々の単一なる思想の実現の場たるには、はるかに豊饒(ほうじょう)であり、深邃(しんすい)である」と父は考えた、ということですね。

 この頃、前回の話で申し上げた戸坂潤さんなどとも、父はマルクスに関して夜更けまで議論をしたりしておりました。三木清さんは、その前ぐらいに法政大学に呼ばれて出て行ったはずです。
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