●幼少期を満州で過ごし、旧制四高で西田幾多郎と出会う
この京都学派の思想と父の立場というものを、少し述べてみます。「世界史的立場と日本」を世に問うた京都学派の思想ということについては、先ほども少し言いました、歴史の研究を中心としていた鈴木成高さん、この方の確かおじさんが小島祐馬さんという京大の有名な中国の研究者だったと記憶していますが、この人を除いた西谷啓治さん、高山岩男さん、髙坂正顕の3名が西田幾多郎先生の哲学に憧れて思い悩みました。特に、倉田百三さんが最も強い影響を受けたという『善の研究』などの著書にひかれて、西田先生の指導を受けるために京都帝国大学(今の京都大学)の哲学科へ進みました。
父の父は、原敬の子分だったのです。ところが、原敬に頼まれて、東京市から国会議員に立候補したところ負けてしまって、その後、逐電して満州へ行くのです。そして満州へ行くときに、僕からいえば祖父ですけれども、祖父は、その前に愛知県の碧海郡(現在の愛知県東部)の、今でいう市長のような役職である郡長をしており、そのときに親しくなった名古屋の芸子さんを連れて行ってしまったのです。ですから、その奥さん、つまり、僕のいうなれば祖母、本当のおばあさんは、一人で東京に残って、洗い張りのような仕事をしながら子どもを育てていったわけでして、この辺は泣かせる話なのですが、病気になってとても生きていけないということで、祖母は船で満州まで行って、祖父に「この子だけは頼む」と父のことを託して、それで、3日目くらいで亡くなったのです。当時の満州の病院、今もその病院はありますが、そこで亡くなったそうです。
あとの女児は皆ちりちりばらばらで、父だけは満州に引き取られて、当時の満州につくられた第1号の中学校に入りました。そして今度、高校は金沢の旧制第四高等学校に行って、そこで西田先生の指導を受けたのです。
●父の反対を押し切って、京都帝大哲学科へ
先ほど話したような流れがあって、実の母親はある意味で悲劇的な死に方をしました。祖父はあまり満州では成功しませんでした。祖父は父に政治家になってほしいということで東京帝国大学の法学部を受けろと言っていたのですが、そこで父は、祖父の意向に逆らって、内緒で京都帝大の哲学科に願書を出したのです。「自分を修められなくて、何でそんな政治家をやれるのか」というよう...