●西田幾多郎を中心とする哲学グループ「京都学派」
髙坂 今日は「過去から未来へ、京都学派の役割」ということで、京都学派の一人であった私の父・髙坂正顕(こうさかまさあき)と、父に反発しながら国際政治学をやった兄・正堯(まさたか)。この二人の眼を通して、京都学派の役割と、それを元に未来をどう考えるかということをお話しさせていただきたいと思います。
まず最初に、「京都学派」という言葉はよく新聞に出てきます。いい意味でも悪い意味でも出てきますし、非常に幅の狭いところと広く取られるところがあります。
京都学派と最初に言われたのは、下村寅太郎さんです。彼は京都学派の中堅どころといいますか、西田幾多郎先生の元に集まってきた一人です。『西田幾多郎―人と思想』という本にその経緯を書いているので、それをまず読ませていただきます。
「1910年、西田幾多郎は41歳で京都大学に招聘された。彼はここで始めて大学の教授として自由な学究生活を送ることができた。1928年、定年退職に至るまでこの大学の哲学の指導者として活躍し、名声と尊敬を集めた。大学の講壇を離れてから後も彼の学問的研究は不断に続けられた。寧ろ一層活発になった。これ以後に於て彼の最も深い思想が展開された。多くの秀れた弟子が彼の周囲に集まり、所謂世間はこれを<京都学派>と称した」
というように、下村先生はお書きになっています。
●広い意味の京都学派は田辺元から山極寿一まで
髙坂 戦後、京都学派といわれるときには、例えば有名な桑原武夫さん、貝塚茂樹さん、今西錦司さん、梅棹忠夫さん、梅原猛さんなどが、京都学派と呼ばれることもあります。
また、戦前、西田先生が招聘した、田辺元さん、和辻哲郎さん、九鬼周造さんなども京都学派に入れられていることもあります。
京都大学で10月より総長になられる予定の、ゴリラの研究者・山極寿一さんも、流れとしてはこの京都学派になるのかもしれません。その意味では、兄も京都学派に入れてもいいのかもしれません。それは、あくまで広義の京都学派です。
●狭義の京都学派の人びと 1)大正9年入学まで
髙坂 ただ、狭義の京都学派として、下村さんがおっしゃっているような人としては、次の人たちが挙げられると思います。
明治42(1909)年、つまり西田先生が来られる1年前に入学された天野貞佑さんは、後に文部大臣になります。
大正元(1912)年に入られた植田寿蔵さん、久松真一さん、森本孝治さん、山内得立さん。このうち久松さんと森本さんは、天野さんも含めて、どちらかというと禅や仏教の研究をされています。
大正4 (1915)年には、務台理作さん。この方は、戦後も東京教育大で活躍されています。
翌大正5(1916)年、三宅剛一さんは、東北大学で哲学を教えられました。
大正6 (1917)年には、三木清さんが入っておられます。ご存じのように、三木さんは獄中でお亡くなりになります。
大正8 (1919)年には、谷川徹三さん。有名な詩人の谷川俊太郎さんは、この徹三さんの息子さんです。
大正9 (1920)年には、木村素衛さん。この方も京大の教授になりますが、終戦直後に頑張りすぎて、信州へ講演に行った途中で風邪をひかれ、そのままお亡くなりになったということです。彼の同期が私の父の髙坂正顕です。
●狭義の京都学派の人びと 2)大正10~14年入学
髙坂 翌年、大正10(1921)年には、西谷啓治さん、戸坂潤さん。西谷さんは宗教哲学的な方面で有名になられますが、戸坂さんは、どちらかというと三木清さんと並び称されています。
大正11(1922)年に入ってくる中井正一さんは、マルクス主義研究などもされていました。戸坂さんも同様で、昭和20年に「もうすぐ解放されるぞ」と言いながら、急逝されてしまいました。父は、「戸坂くんがいてくれたら、戦後のマル経も、もう少し話ができたのに」と言っておりました。中井さんのほうは、その後、国会図書副館長をお務めになったと思います。
それから、大正12(1923)年入学が下村寅太郎さんで、比較的長く東京教育大学の教授をされたと思います。
大正13(1924)年入学の鹿野治助さんは、よく知りません。片岡仁志さんは、やはり禅の研究。それから、唐木順三さんは、非常に有名な中世史や日本の精神史を書かれた方です。そして梯明秀さんは、確か当時の学校時代のことを以下のようなことを書いています。
「あそこに京大の4羽烏がいる」と言っていた。その四人が木村素衛、髙坂正顕、西谷啓治、戸坂潤で、いつもこの四人は隅っこに固まっていたが、「羨望の的だった」と。
この後(大正14年)に、若い高山岩男さんが入ってきます。確か山形の出身で、非常に冴えた方です。
●「世界史的立場と日本」に集まった人びと
髙...