●21世紀の問題を提起していたトインビー
最後に、「過去から未来へ」ということで考えます。21世紀を控え、ちょうど兄が亡くなる直前に二人で話していたのですが、多分あのときはもう立ち上がれなかったのでしょうか、ベッドに横になって話していました。
トインビーの『世界と西欧』という本がありますが、その考え方の中心は「これからは西欧のチャレンジと世界のレスポンス」ということです。彼がBBCで6回ほど講義した放送をまとめた本で、第2次世界大戦後の世界のあり方を予想したものです。
兄が「トインビーの考えは半分当たっているけど、半分は当たっていない。むしろこうした状況は21世紀に問題になるだろう」と言ったのが、私には印象に残っています。
最近の中国の発展やBRICsの動き、あるいは南北格差の拡大や地球環境問題といったことを考えると、やはり21世紀に入って、このような問題がはっきりしてきたというように思います。
●現在の価値観に囚われずものを見るための試み
鈴木成高さんが言われたランケの「全ての時代は神に直結する」ということで考えますと、京都学派は神の替わりに「絶対無」というものに直結すると言ってもよいのではないか。
そうすると今の時代、歴史を知らずに現在だけしか知らないというのは、現在の価値観だけで日本や人間を見ることになる。いろいろな価値観があるという相対的なものの見方ができないわけで、それは危険だろうと思うのです。
西谷啓治先生が書かれた『空と歴史』という本があります。そこで西谷さんはどう書いておられるか。
「我々がどこから来て、どこへ去るのか。限りなく過去へ遡り、限りなく未来を追うても『私の存在』も『時』の始めも終わりも窮めがたい。だが『私が現に存在しているということは動かし難い事実である』『何処から何処へ』の問い、『時』自体の始めや終わりは『現在の直下にある』」
ここまでは、ランケが「神につながる」というのと似ています。
「過去に原因を求める科学の実証主義も、未来に目的を追う理想主義も、双方とも『時』のうちでのみ自己構築・自主化させ、『時』の底に『時』を超えた『もと』を忘却しているとして『永遠の今』を考えるのです」と、西谷先生はお書きになっています。
●西欧が作った「進歩の思想」に惑わされない
そこで、先ほども言いました「歴史のものの見方」で考えてみますと、21世紀の問題の一つは「今までのような成長がいつまでも続かない」ことです。
成長という概念自身が、過去から未来へ成長し続けるという、産業革命以来、西欧の思想を形づくってきた「進歩の思想」に裏付けられた思想で、前に言った第一の歴史の流れである因果論的な流れです。
昨日より今日、今日より明日の進歩。成長戦略の必要性を否定するわけではありませんが、人口の増加や資源の枯渇、環境破壊の問題を、それだけでは解決できないのではないか。
ということで、新しいフロンティアがなくなり、「宇宙船地球号」という考えが出てきます。これは、ケネス・ボウルディングという人が大分前に発表しています。
余談になりますが、私が大学で最初に読んだのは、ケネス・ボウルディングの『Economic Analysis』とサミュエルソンの『Economics』でした。両方を読んで、ボウルディングの方が深い哲学的な思索があると思いました。当時はミシガン大学の教授でしたが、もしも学校に残るならボウルディングのいる大学へ行こうと思ったぐらいです。
●「ノー・リグレット・ポリシー」で因果論と目的論を超える
そういうことから言うと、因果論的な流れだけで歴史は見られないのではないか。逆に、目的論的な流れ、つまり、現在の立場に立って永遠性の場に解を求めて、その結果、地球温暖化に対応することはやぶさかではない。
「ノー・リグレット・ポリシー(No Regret Policy)」という言葉があります。国の政策までは否定しないけど、現在行われている将来の予測が全て完全なものであるとは言えない。
ですから、「地球温暖化で何度上がるか」というようなことを言われても、その間にそれに対応するいろいろな技術が出てきたり、ものの考え方が変わったり、予測に基づいて動くということだけではないということだろうと思います。
因果論的な考え、目的論的な考え、いずれもそれだけでは十分ではありません。
●一神教の相互不信を考える
そこで、少し話題を変えて、もう一つ大きな問題を取り上げたいと思います。それは、現在中近東で起こっている問題。「アラブの春」と呼ばれたこの地方における、キリスト教、イスラム教、そしてユダヤ教の間の相互不信の問題です。
全部出自は同じなのに、あれほどお互いが罵り合い、あるいは非難し合っている。全部が全部...