●父の戦後-著述の日々と民主主義の分析
戦争に負けた後、公職追放になった父は、終日書斎にこもって著述に専念しています。特に時代の流れ、時代の要請に応えるように、実存哲学、プラグマティズム、ニヒリズム、マルクス主義などに関する著書を出版しています。中でも『キェルケゴールからサルトルへ』とか、『ハイデッガーはニヒリストか』などは、よく読まれたようです。
父はだいたい4時か5時には起きて、一人でコーヒーを入れて勉強をして、玄関には「午前は仕事中」と張り紙をして、お客さんと話をする、あるいは、子どもたちと話をするのは昼からと、こういうことでした。
同時に、岩波書店が非常に左翼的な動きを強めます。そうした中で、同人雑誌的な『心』という雑誌が出ますけれども、ここに保守主義的と呼ばれた人たちが投稿します。竹山道雄だとか、福田恒存、亀井勝一郎とか、あるいは久山康といった人たちが、『戦後日本精神史』や『現代日本のキリスト教』など、戦後思想の動向を分析して発表しています。
また、父は日本国際連合協会京都本部が出している「民主主義の再検討」という小冊子で、民主主義の系譜とその本質について分析をした後で、「民主主義は王制や貴族制に比べて運営がよければいい。けれども、下手をすると衆愚政治に陥る」ということを書いています。当時、「民主主義というのは、全てに勝る」「これ以外の制度は皆駄目だ」というような風潮だったときに、やはり物事を相対的に見ることが重要であると考え、「民主主義であったらいいのだ」という絶対的なものではないけれども、「うまく運営すれば、確かに一番いい」というような言い方をしております。
●糺の森がもたらした「森の崇高性」の思索、そして父と兄の語らい
その頃は、父は毎日勉強して、後は散歩に行くのですが、京都の下鴨神社にほとんど毎日のように散歩で行っています。下鴨神社と糺の森(ただすのもり)は世界文化遺産になって、今、私もそこの保存会の役員をしております。
次のような言葉にも父の感じが出ていると思うのですが、「糺の森の崇高性は、悠久とはいえ滅び行くもの。生と死の間にあるものの、しかも自ら示す悠久性のゆえの崇高性であると。人は人間の人格における崇高性と共に、例えば森に現れるような朽ち行き得る、しかし深い自然の崇高性を尊ぶことを忘れてはいけない。私は森...