●入門先の先生は20歳ほど年下の高橋至時
童門 だけども彼の有名な「大日本地図」をつくる過程において、北から南まで歩きましたけれども、これがまた苦労の連続なんです。つまり彼はもともと町人でしょう。だから行った先が彼のことを信用しないんです。税金を多く取るために幕府の下働きで来やがったな、と。
―― 隠密じゃないか、と。
童門 何か隠れ検地をやるつもりだろう、と。だから、そういう人達を説得し、懐柔し、それから自分についてくる人たちに馬鹿にされないための技術上、知識上の実力を大いに示していかなければいけない。ところが、高橋さんが感心するほど、天文方に入った時には一応の基礎は全部身につけていた。だから応用のところだけを教えればいい状況にあったわけです。だから高橋さんにとっては非常に教え甲斐のある弟子だったんです。年は取っているけれども。
―― 高橋さんとは、高橋至時(よしとき)さんのことですね。
童門 そうです。「至る時」と書きます。
―― この人はどういう立場の人だったんですか。
童門 大坂城の下っ端役人で同心だった。あの頃は大坂に有名な天文学の先生がいまして、その先生に幕府が暦を変える改暦を企てたんです。ということは、幕府が出している天文学の本では、月が太陽を隠す日食とか月食とか、何月何日の何時と書いてあるけれども、どれも合わない。それで民間から非常に厳しい意見が出たので、暦を変えなきゃならない。暦を変えるためには、大坂のあの先生に頼まなきゃダメだと。それでそこへ声をかけるんです。
すると、「もう年を取ってるから、そういう億劫な仕事は勘弁してほしい。ただ、私のところにものすごく優秀な弟子が1人いる。高橋さんという。この弟子を代わりに差し向けるから、使ってやってください」と答える。そうして高橋さんが気象台の所長になったわけです。
―― 今でいうところの、まさに気象台の所長というところですね。
童門 そうです。
―― 暦と天体というのは、当然非常に密接に関係していますから、その研究で暦をつくっていくということになってくるわけですね。
ということで、ある意味そうしたことを学んでおられる、しかも気象台のトップですから、伊能忠敬としてはそういう第一人者のところに弟子入りをしたいというところで、前回先生がおっしゃったように、一流の機材をお土産に持っていって、入門した。だいぶ年下だったんですよね、確か。
童門 そうですね。高橋さんはこの時、30歳すぎですから、およそ20歳違うでしょう。
―― そこで辞を低くして弟子入りをしていくというところですね。
●測量を行うために全国で協力を得られたのは人間力
―― そこで、まずは星、天体観測、それから暦。そして有名な地図つくりということになります。これも連関していて、計測をしながら行っていったということですね。
童門 そうなんです。だから、例えば川があって、川の向こうに山があるでしょう。川のこっちにいて、その山の高さを測るときの方法なんていうのは、今の数学の方法をちゃんと伊能さんは心得ていました。そういうのを結局現地で実行してみて、またその実績を上げることによって、最初持たれた誤解もだんだん解けていく。検地に来たんじゃない、と。本当に日本全体、この国のためのことを考えて汗水流しているんだなという、その誠実さが分かっていくわけです。
―― 当時ですと、藩はそれぞれいわば国のようなものですから、他の国に、あるいは幕府に手を突っ込まれるという危惧もあるわけで、そこを信頼されるというのは、まさに前半生で培った人間力が思い切り生きているというところですね。
童門 そうですね。それから接する人々ですね。それは職業上限られていても、前回話に出た任侠心を持って接するから、胸キュンとして「この人はほんとはいい人なんだ」ということになる。そこは、ものも言わず、徳によって説得力を持ち、だんだん仲間を増やしていったということでしょう。やはりその土地に協力者がいなければ、測量などできませんからね。
―― そうですね。ある意味、寅さんじゃないですけど、全国を渡り歩いてその土地、土地で信頼されて、やっていかないと、とてもじゃないですけど、ということですね。
童門 そうです。それには腹の底から、嘘をついていないというか、肝のきれいなところがあるんでしょう。自分でそれを言ってはおしまいになってしまうけれども、やはりそこはかとなく伝わっていくようなコミュニケーションがないとダメなんでしょう。
●立志と任侠によって大地図づくりを成就できた!?
―― 今のお話を伺っていると、伊能忠敬のいわゆる成功の一つの秘密というのが、若い頃、本当にやりたかったものを思い続け、そのための準備をきちっとして、いざというところ...