●東アジアには「レリジョン」に相当するものがなく、日本で「宗教」と翻訳
では、再びお話をしたいと思います。儒教に関しての議論をもう一度続けてみたいと思うのですが、「儒教は宗教なのか」という問いを少し手がかりにしてみたいと思います。
多くの方々は、「いや、儒教はやはり宗教ではない」とお考えだろうと思うのです。なぜならば、宗教としてイメージされるのは、多くの場合、キリスト教だと思うからです。儒教には、キリスト教のバイブルにあたる経書はありますが、例えば教会や、あるいは信仰箇条を欠いているので、宗教ではなく、やはり哲学、思想、倫理といったものなのではないか、という議論がなされるかと思います。ただ、これは、実はなかなか難しい問いなのです。といいますのも、宗教というもの自体が問題含みだからです。
近代の東アジアが直面したもの、それは「キリスト教に代表されるレリジョンをどのように翻訳し受け入れるか」ということだったと思うのです。それに相当するものはなく、翻訳語として最終的に「宗教」になっていきます。
これは、日本で翻訳されて、逆に中国、あるいは、韓国の方に広がっていったのですが、他にもいろいろな可能性はあったのです。
●中国と日本のキリスト教との関わり
そのレリジョンとしての宗教に対して、それまでのさまざまな「教え」があります。儒教は儒の教えです。道教は道の教え、あるいは、仏教は仏の教えなのです。それらの教えと宗教とは一体何が違うのか。これが当然問われていくのです。
難しいのは、キリスト教といっても、そこでイメージされていたのは、プロテスタンティズムだったのです。カトリックに関しては、日本も中国もすでに17世紀に経験をしていたので、ある仕方で理解できていたのです。
例えば、中国の場合ですと、イエズス会のマテオ・リッチとの交遊や、あるいは、彼の『天主実義』という非常に見事な書物の理解を通じて、カトリックはある程度の理解を得ていました。日本の場合でも、例えば、不干斎巴鼻庵(ふかんさいはびあん)の議論がありますように、カトリックは何となく分かっていたのです。
ところが、プロテスタンティズムは、全然違う形態をとっていました。なぜならば、それはビリーフ(信仰)、すなわち「神を信じるということは内面の問題である」と考えたからです。「私と神が内...