●汚い色が綺麗にならなければ、芸術ではない
執行 これは洋画家、戸嶋靖昌も言っていました。「優れた芸術というものは、汚い色が綺麗な色になる」と。
―― 面白いですね。
執行 これは戸嶋の言葉です。汚い色が綺麗にならなければ、芸術ではないのだと言ったのです。 私は、これをコシノさんの芸術にも感じます。憎らしい顔を描いて、それが反骨になるのです。
―― 確かにそうです。
執行 だから、これがコシノ芸術だということです。
―― それは、綺麗な心と素直な心を持っているからですね。
執行 絵の具で言えば、汚い色の絵の具を使ったのに、出来上がった絵から綺麗な波動、美しい波動が来る。それが真の芸術だと、戸嶋も言っています。戸嶋が自分の芸術作品やいろいろな芸術作品について言っていたことを、コシノ芸術にも感じます。
あちらに掛かっているコシノ芸術も、みんなゴテゴテした汚らしいような感じの中から生まれ出てくる芸術です。それをコシノさんが描くと、昔で言うと神のような、混沌の宇宙の中心からわれわれの生命を生み出してきた「苦しみ」や「喜び」へと変わるのです。
―― 変わるのですね。
執行 変わってしまう。だから、蓮(ハス)の花が描ける人なのです。蓮の花は泥水の中から出てきます。ですから、泥水を描いているように見えて、コシノさんが描くと自然に結果として、蓮の花が現れてくる。これが真の芸術家です。コシノジュンコは真の芸術家ということです。それが現れている1つがこれであり、向こうにあるのです。
―― 蓮の花になるのですね。確かにそうですね。
執行 面白いです。これが「憂国の芸術」の一番新しいコレクション。
―― なるほど。先生に解説してもらうと、ものすごく分かります。
執行 私の「憂国の芸術」は思想が一貫しているので、話せば分かりやすいのです。
―― わかりやすいですね。どこを見て、見つけてこられたのかが分かる。そして持っている魂は、みんな同じですね。
執行 同じです。それでいて芸術作品であり、他人の役に立てる。このコシノ芸術もずっと私が保存して、50年後100年後に才能がある人が見れば、コシノジュンコの生き方、魂のあり方が感じ取れると思います。感じ取って、「ああ、こういう日本人がいたんだ」ということで、自分もそういう生き方ができる。参考にできるのです。
―― それはすごいです。
執行 そのために取っているのです。
―― 渇望感が出てくれば、感じられる人がもっと増えてきますね。
執行 そうです。それが私の実感です。先ほど言ったベートーヴェンの「第五」と『万葉集』。私もああいう芸術から感じ取りました。先生とか、いろんな人から教えられるものではなく、自分でつかみ取ったもので人生が立ったので。
―― それもすごいです。辞書も引かず、解説書も読まず。
執行 これは誇りです。今でもそうですから。
―― その話を最初に聞いたときに、すごい話だなと。
執行 だから『万葉集』キチガイですが、人前で発表できるようなものはあまりありません。間違っているからです。でも、私は間違いでいいと思っているのです。間違っているほうが、奈良時代の人と友達になれます。
―― そうでしょうね。話ができますよね。
執行 後から考えたことですか、奈良時代の人が全部、正しくて立派な人だったわけではありません。みんな間違いだらけの人間なのです、われわれは。人麻呂だって赤人だって、その人生を調べれば、間違えて、間違いに悩みました。政治的には左遷もされ、苦しんだ。そういう人たちの歌なのです。
―― 額田王なんて、まったくそうです。
執行 みんなそうです。不幸の代表です。その中から生み出したものなのだから、間違っている方が正しいのです。私は実感しています。
―― しかも戦乱ですからね。
執行 それで、私は友達になれたと思っています。「間違ったままでよし」と思って読んでいる現代人はいないと思いますが、たまたま私がいたので、次元が重なった。
―― それが本当は間違っているかどうか、わからないですよね。
執行 今の学者が「間違っている」と言うのです。
―― でも、そっちの可能性もあります。
執行 辞書などには「その解釈は間違い」として書かれている、ということです。
●『源氏物語』に恋をした本居宣長
―― そこまで突き詰めて感じ取ってくる、つかみ取ってくるのは、やはりすごいところですよね。
執行 私は学者としては、もちろん全然ダメですが、学者として優れた業績を残している人で、日本の歴史上有名な本居宣長という人がいます。本居宣長は『古事記』や『源氏物語』を読解して、あの人の読解があるために、われわれ明治以降の人たちは『古事記』と『源氏物語』を古典として読むことができる。...