行徳 松岡修造が山(「BE訓練(Basic Encounter Training)」=行徳氏が開発した独自の山中訓練)に来たのは、19年前、あの震災の年でした。
── 神戸の震災(阪神淡路大震災)ですね。
行徳 そうです。修造が来たきっかけは、彼のお姉さんでした。日本料理で有名な辻調グループの辻芳樹さんの奥さんです。
実はその時、修造は大変な絶不調でした。国別対抗戦デビスカップの時には、300位以下の選手に負けて、日本チームはデビスカップ出られなかったのです。しかも、体ももうボロボロになっていました。そんな状態で、とにかく大変なスランプでした。そんな中で山に来たのです。
── 1995年は、そんな大変なスランプだったんですね。
行徳 もう絶不調でした。彼は当時、「東洋の若武者」「テニス界のプリンス」などと呼ばれ、47位くらいまで行きました。一時期は、本当にもう向かうところ敵なしだったのです。それで、日本では敵がいないから、アメリカに渡ったわけです。しかし、その彼が、もう無残に敗れて、そして負けが続いた。そんな中で来たのです。
彼は188センチメートルもある長身ですが、もう自分との闘いがすさまじかったです。とにかく勝ちたいのだ、と。もう、自分がみじめだし、自分が悔しいと。その自分との闘いがすごかったです。泣き叫ぶときも、見ていて「体が割れはせんか」と思うくらいの闘いでした。自分との闘いです。そして、彼は、ウィンブルドンに向かったわけです。
── すごいテニスプレーヤーですね。そういう背景があったのですね。
行徳 そうです。その中で、やはり彼は地獄を見たのです。だから強いです。もう、本当にすさまじい闘いを、自分との闘いをやりましたね。
●1995年ウィンブルドン、ベスト8の歴史的瞬間
行徳 1995年、テニスプレーヤーの松岡修造がウィンブルドンで戦った時に、私は、彼に1枚のFAXを送りました。「修造、日本人に希望と勇気を与えてやろう。修造に乾杯。サンプラスの試合は善戦祈る」と書いたのです。
ところが、修造からFAXが返ってきて、そこには、「善戦じゃ勝てません。僕は、もう勝ちにいきます。勝ちにいく時が来た 修造より」とありました。
私は、ここまで言うのか! と、むっときた面もなくはありませんでした。何を! と。しかし、やはりその心意気が気に入ったものですから、「その心意気よし、死闘を祈る」と返しました。これはまさに死闘ですよ。ピート・サンプラス選手を相手に。こんな表情は、死闘を繰り返した人間にしかできません。そしてサンプラスから1セット取ったのですから。
── すごいことですね。
行徳 その時のサンプラスは、確か世界ランク2位です。1位はアンドレ・アガシでしたかね。
あの時、修造は、ラケットを放り投げたり、ウィンブルドンのコートに大の字に寝たりしました。大変お堅いお国柄のイギリスです。イギリスのメディアは、不作法なこととして彼の態度を非難するはすです。ところが、どの新聞も、そうしない。そんなことよりも「東洋の若武者」といって彼を称えてくれたのです。
── すごいですね。
行徳 そういうところが、やはり修造の持っている、一つの空気というか、何というか。そういうものがあるのですね。
私は彼に、「その心意気やよし、死闘を祈る」と言った。まさに死闘を祈った。彼は死闘を繰り返しました。
その後、彼は本当なら日本に帰ってくると思ったのですが、帰りませんでした。そして、全米オープンに行く。そこであの痙攣を起こしました。日本の新聞には、彼が倒れたところの写真が大きく出ました。その時、彼は電話で「負けました。帰ります」と言いました。そこには、一言の言い訳もありませんでした。
── 一切の言い訳がないのですね。
行徳 言い訳をしない。私は、「胸を張って帰ってこいよ」と言い、成田まで迎えに行きました。やはり胸を張って帰ってきました。
●“まぎれもない自分”であり続ける
行徳 ただ、その後に、また負けだしたのです。
── 負けだしたのですか。
行徳 はい、負け始めたのです。日本の国内戦で負けました。
その後、彼は、便箋3枚、4枚でしたか、そこにある、その手紙を書いて寄こしました。そこには、言い訳めいたものもありました。だから、私は、それに対して返しました。「修造。言い訳めいたものを寄こした修造。気力と気迫に落ち込みがある修造。しかし、日本人に希望と勇気をあれだけ与えた。それも松岡修造じゃないか。どっちも“まぎれもない松岡修造”だぞ」と。
── “まぎれもない”ですね。
行徳 「だったら、修造を極めろ」と。「修造の敵は、サンプラスでもアガシでもねえぞ、修造自身だぞ」と。「修造と闘えよ。そして修造...