●便所のことを考えた家の構造が江戸時代に広く普及
本村 (日本の)便所は、「かわや」「せっちん」「はばかり」などと呼ばれていました。このうち「雪隠」と書く「せっちん」は、おおむね家屋の北側、あまり人の行きたがらないような場所に置かれました。家の中にそういうものを設けることが、江戸時代に広く普及したといわれています。
元禄の頃に書かれた『百姓伝記』という本の中には、便所の位置や構造まで書いてあります。それは、やはり世界史的に非常に早い時期に行われていたのではないかと思います。そういうことに興味を持ち、組織立てて考えるのが、日本の場合の非常に大きな特徴であったわけです。
そのうちに、(トイレが)外に置かれたり、あえて日当たりのいいところに置かれたりするようなことも行われ始め、家の構造の中にきちんとトイレを位置づけ、つくっていくシステムがだんだんできてきます。
もちろん先に言ったように、人糞尿というものは農村で収穫する野菜の類と交換される。農民の手に渡ったそれは、農地に施す肥料になるということです。あまり手に入らないような場合、人糞尿の値段が非常に高騰して、儲かるようなこともあったといわれています。だから、長屋の共同便所というのは、大家の収入源として馬鹿にならなかったわけです。
そういうふうに考えると、ヨーロッパのほうでは、近代になってからでさえ、それほどきちんとしたものはできていなかった。しかし、口に入れて、そこから外に出すというのは人間の一番基本的なことです。なぜ、そんなことがあまり気にならないのかというのは、われわれの感覚でいくと、ちょっと不思議な気がします。
―― これは、不思議ですね。日本人の場合は、口から入れるものと出すものをしっかり考えているとともに、それを肥料として循環させていくということですね。
●江戸の優れた糞尿リサイクル・システム
―― 以前、講義で使ったことのある本で『江戸の卵は1個400円』(丸田勲著、光文社新書)というものがありました。これには、いくらぐらいで(人糞尿が)売られていたかが書いてありました。
本村 ああ、そうですか(笑)。
―― 10世帯程度の長屋の場合、大家には年間2両ぐらいが渡ったといいます。2両というのは、江戸期でもどのあたりで換算するかでもちろん変わってきますが、この本の換算では、今の価値でほぼ25...