●人間として持っていた価値を国家が否定してしまった
執行 戸嶋靖昌氏の絶筆のときの生き方は、私の言っていることをわかりやすく説明しています。
―― わかりやすいですね。
執行 不合理だから。原理からいえば、野蛮。
―― この美しい生き方は、AIではできないですね。
執行 できるようになるには1000年かかります。
―― 中世が始まって終わるぐらいまでのあいだ、かかりますよね。
執行 そう思います。そのあいだ、魂の人間だけはAIと共存する価値がある。
でも、われわれにはとにかく、20世紀の文明なのだけれども、電化(電脳化)によって楽をすることがすべての価値観の頂点にあるでしょう。これはダメです。もう一度思い出すのは、楽をしようとする、くだらないクズのような根性を叩き直すことだけが昔の躾の全部で、道徳や教育の根源だということです。
昔の親がやっていたことは、とにかく「怠ける」「楽したい」という根性を小さい頃に叩き直す。これに成功するかしないかが、躾のいい子と悪い子の違いでした。
だから昔も、躾がない、教育がない、なんというのか、いわゆる「育ちが悪い」と言われた人は、みんな楽したいのです。とにかく、楽したい。
でも、国家や人類は、働くことが非常に好き、勉強が好き、向上心がある、いい意味で偉くなりたい、名を残したいといった人たちが支えていたのです。その文化を今、国家が否定している。
―― 壊してしまっているのですね。
執行 そしてダメな人ほど、裁判所でも、いざとなれば必ず勝ちます。それは会社も、です。仕事をやりたい人が負けるのです。
―― たった50年で情けない社会に……。
執行 それによって完全にAI化するわけです。
―― そうですね。そうしないと生きていけないから。
執行 そうです。そして、この人類が戻ることはない。戻ることがないとは、滅びるということです。そう言うと「ひどいじゃないか」とみんな言いますが、ひどくも何ともない。それが科学的事実です。
―― 「生まれただけでOK」みたいなことをやっていたら無理なのですね。教育が成り立たないと。
執行 成り立ちません、躾も。人間が人間として持っていた価値を自分で捨てたのですから。
―― そうでしょうね。
●野蛮性を持った人は共存できるが、「いい人」は家畜になる
執行 「人間が人間の役割を果たすように自覚するには、どうすればいいか」という質問があります。これは人間が苦しいことに挑戦し、愛のために一生苦しみ、自分以外の者のために犠牲になれる精神を養うようになれば、滅びることはありません。でも絶対ならないので、これではダメですね。
―― なるほど。
執行 そして、ほとんどいい部分を全部捉えているのがロボットとAI。
―― 本当にパンとサーカスに近づいたのですね。
執行 近づいたというか、どっぷりです。
―― どっぷり…。
執行 「AIと人類の共存は、どのようになされていくでしょう」もよく聞かれる質問です。これはすでに回答したように、魂の部分を重要視している人間と(で、一方)知性や合理性、平等、民主主義、科学は、全部AIに移行します。(つまり)混沌とした魂、印象としてはよくない野蛮性を持った人がAIと共存できる。だから野蛮性を残さず、今流のヒューマニズムで“いい人 ”になった人は全員、家畜になる。
―― 原始キリスト教も同じですね。
執行 同じです。これは私の想像ではなく、すでに小さい形では文明の盛衰で出ています。これが大きい形で出るということです。
―― ローマ社会だけじゃないと。
執行 そうです。
―― やはり今日みたいに文明史で整理してもらうとわかりやすいですね。あと、もう現実で言いにくい話、「すでに入っている」という形で切っていただいたのもわかりやすいですね。
執行 だから残るとすると、やはり芸術でしょう。
―― 芸術と魂ですね。
執行 芸術の中に入っている魂です。芸術といっても、現行人類の楽な生活に寄与する芸術はダメです。人間が芸術のために自分の命を投げ出した芸術。それだけが残る。
これから、AI(社会)で一番苦しいところは私の見立てでは、いいものは全部AI化され、悪いものは全部、人間つまりホモ・サピエンスという時代になる、このことに耐えられるかどうかという話です。
―― 厄介ですね。
執行 厄介だと思います。でも、現実になっていますから。
―― やはり野蛮さを持っていないとダメなのですね。
執行 そうです。(ルネ・)ゲノンというフランスの哲学者が、人類が発祥したときの魂が根源的伝統であり、それは犠牲的精神だと書いています。犠牲的精神だけが、人類が人類たる謂れである魂ということです。
―― 犠牲的精神だけが。
執行 われわれがAIと共存するには結局...