●隋・唐時代、仏教と政治が深く結びついていた
では、続いて、儒教と啓蒙についてお話をさせていただきます。
儒教は非常に長い歴史を持つものですが、今回お話をするのは、新儒教、欧米で「ネオコンフューシャニズム」と言われるもの、つまり、朱子学、陽明学、あるいは宋学、明学とも言われる、宋代、明代の儒教について、お話をしたいと思います。
その以前、隋・唐の時代には、日本から遣隋使、遣唐使が派遣されていました。当時の中国の学問の中心は、当然、仏教でした。そして仏教は、学問の中心であるだけでなく、当時の中国の政治に深く関わっていました。
では、なぜ仏教は、それほどまでに政治に深く関わることができたのか。日本から遣隋使、遣唐使が行って仏教を取り入れることによって、どういうメリットがあったのかを考えてみましょう。
●万人を救い、人心をつかむ仏教の力
よく考えてみると、仏教というのは出家ですから、出世間とも言うように、われわれの普段のこの日常の生活からいったん外へ出ることがどうしても要求され、最終的には解脱(げだつ)を目指していきます。
そういった教えが仏教ですから、現実の世界に寄与していくという点では、非常に薄いのです。仏陀(ブッダ)自身も自分の国を捨て、その国は最後は亡びていきますし、自分の家族もひどい目に遭います。
そうしますと、国や家というものに対して、仏教がそれほど積極的に貢献するとは、当然、思えないのです。ところが、その仏教というものが、中国においては大変重要な政治的な資源になっていきました。
日本も当然それを学んで、政治に利用しようとしたのですが、それはなぜでしょう。いろいろな理由が考えられるかもしれませんが、やはり仏教の強さとは、多くの人々を巻き込むことができたこと、これに尽きると私は思っています。
例えば、中国では、それ以前の儒教が典型的ですが、誰もが聖人になれるわけではありませんでした。選ばれた人、あるいは、非常に努力をした人が辛うじて聖人になれるかもしれない。そういう非常に特権的なものが聖人でした。ところが、仏教は「いやいや、あなたも救われますよ」と、そこを突破していきます。これほどありがたい教えはありません。しかも、救われるために、何も激しい修行をするだけが救いの道ではないというのです。最終的には、例えば日本が典型的ですが、念仏を唱えるだけで救われるというところまで行きます。それは、やはり人々の心をがっちりとつかむのです。
多くの人々の心をつかむということは、やはり政治の要諦でもありますので、その仏教と権力を結びつけていくことができれば、国家経営という点に関しては、非常に利点があったと言えます。
●中国固有の思想に置き換えていこうとする動き
そのような仏教と政治の関係があった中で、中国においては、唐の代あたりから徐々に動きがあったのですが、宋代になって、やはり中国固有の概念を用いて、この世界をもう一度考え直さなければならないのではないか、という議論が出てきました。というのは、やはり仏教は、中国固有の教えではないからです。今、縷々お話ししたような仏教は、インド仏教とは本当は違うのですが、しかし、やはりその出自はインドであって、中国ではないという意識が働いています。
そうすると、仏教がもたらし、達成した果実をうまく利用しながら、しかし、それを中国の固有の思想に置き換えていく。別の言い方をすると、中国の固有の思想をバージョンアップしながら、より現実をうまくすくい取っていく。そういった教えに鍛え直すことができるのではないか。このような考えが、朱子学、あるいは宋学の発想の大きな根本にあったのではないかと私は思います。
●朱熹の選択──仏教を超え、内面に向かう「啓蒙」へ
実際、朱子学を築いた朱熹自身も、若い時に、仏教、特に禅を学んでおり、相当入り込んでいました。ですから、仏教の持っている力を、十二分に分かっていました。
その仏教を超えなければいけない。では、どうやって、仏教を超えていけばいいのか。しかも、先ほど申し上げたように、仏教は万人に開かれているという構造がありますから、そこのところを儒教にも導入しなければいけない。そうすると、多くの人がある仕方で修養をすることによって聖人になることができるというプロセスを発明しなければなりません。ここに朱子学的な「啓蒙」という問題が発生します。
朱熹の採った道は、こういう道でした。まず一つは、内面に向かっていきます。典型的なのは「誠意」です。日本でもよく、「誠意のある人」、「誠実な人」という言い方をしますが、もともとこの誠意というのは、「意を誠にする」ということで、「誠にする」というのは動詞です。自分のその心で思ってい...