●「打倒孔家店」の必要はないと胡適は言った
儒教をキリスト教化していくことによって、キリスト教に匹敵する精神性を持つ。儒教は同時に中国の伝統に根差したものですから、儒教をキリスト教化すれば、西洋の科学技術をそのまま受け取るのではなく、中国の伝統や精神性と適合する形で受け入れる土壌をつくることができる。胡適はこのように考えていきました。
中国でよく孔子批判のときに、「打倒孔家店(ダーダオコンジアディエン)」、つまり「孔子の店を打倒せよ」という言い方がなされましたが、晩年の胡適は「打倒する必要はない」と言いました。
胡適は中国近代の啓蒙の旗手で、当初は儒教に対して非常に厳しい態度をとっていました。浅い啓蒙に儒教などいらない、新しい哲学、新しい文学があればよいと考えていました。ところが、その胡適でさえ、儒教のある種の深さを再導入しなければなりませんでした。ここに中国近代の啓蒙のある種の困難さ、アポリアがあるのではないかと思います。
もちろん、胡適は一方で「自分の学のあり方は浅い。それは長所なのだ」とも繰り返し言いました。しかし、浅い啓蒙と新しい宗教としての儒教が結びつくことで生まれてきた豊かさを、われわれはうまく実感できないだろうと思うのです。
●福沢にとって、内面的な問題は重要ではなかった
胡適の苦労は、多分、福沢諭吉も共有した問題だろうと思います。例えば、福沢の自伝『福翁自伝』は非常に面白いのですが、人格が苦労して形成されていく物語ではありません。実は、福沢は、自分は最初から啓蒙された子どもであったと、自らを書いているのです。
『福翁自伝』で印象的なのは、福沢が、自分の行ったことに対して、ある種の軽妙な距離感を保っていることです。佐伯彰一先生が、このようなことをおっしゃっています。
「福沢は、まことに溌剌、かつ柔軟な書き手で、ほとんど楽しみながら、つぎつぎと大量の著作を物した。ほとんど天性の物書きといった人物だったけれど、自我表現という問題に一度でも頭を悩ましたことがあったとは思われない。噴出、あるいは定着の機会を待ちかねて、烈しくふるえつづけている内的自我といったものには、全く無縁であった。」
この批評は印象的で、福沢の啓蒙のあり方を非常によく示しています。内的な自我といったものを構築する必要を福沢は感じていません。彼は明治最大の啓蒙家ですが、彼にとって、内面的な問題はさほど重要なものではないのです。
逆に、福沢は身体的なものへの目配りがある人で、『福翁自伝』でも身体に対して繰り返し言及しています。考えてみれば、緒方洪庵の下で医学を学んでいますから、身体に関心があるのは当たり前だろうと言われたらそれまでですが、問題は、内的な自我を語らない代わりに、身体について語ることです。ここに福沢の啓蒙の面白さがあるのではないでしょうか。
●福沢は「儒教主義」が大嫌いだった
福沢は、心にいろいろなものが入ってくること、それによって内面がつくられていくことを非常に嫌ったのではないのかという気がします。
有名な話ですが、福沢は儒教、とりわけ自身が「儒教主義」と呼ぶものが大嫌いでした。当時、自由民権運動などへの対抗措置として、学校などで儒者を使ってある種の道徳教育を行い、人々の内面を支配しようとした人たちがいました。これが儒教主義です。それに対して福沢は怒ります。儒教を通じて心を道徳化していくなどということは、非常に遅れたやり方だ。そのように人の心の中に立ち入ってはならない。多分、福沢はこのような思いを抱いていたのだろうと思います。
では、福沢に儒教的な素養はなかったかといえば、全く逆です。彼は、実は儒教にも造詣が深かったのです。『福翁自伝』を見れば、儒者に学んでいる箇所も見られます。ですから、おそらく儒教を頭から排除しようとしたのではなく、当時、彼の目の前で広まっていた儒教主義に反対したのでしょう。
●儒教は、東アジアを啓蒙する上で目障りな存在
福沢を語るとき、ある時期から「脱亜論」がよく取り上げられます。朝鮮、中国に対して、福沢は大変厳しい態度をとりました。日本で展開されている儒教主義の、より古い形で、より悪しき形である儒教が、朝鮮や中国で近代化を損なっているという思いがあったからだと思います。彼は、朝鮮や中国に対して、日本の影を見てしまったのではないでしょうか。そして、何としてもそれを乗り越えようとしたのです。
もちろん、福沢のアジア認識が、今の目から見て、果たして適切であったかどうかは大いに疑問があります。しかし、儒教あるいは儒教主義に対する福沢の批判は、浅い啓蒙を主張していた福沢にとって、非常に重要なものでした。
逆から言えば、胡適にとっても福沢にとっても、...