●印象派の「脱固有色」の画期性
それ以外にももう1つ、重要なファクターが、「脱固有色」です。
固有色から脱出するということはどういうことか。水は水色、空は青、葉は緑、肌は肌色、お絵かきだとか、小学校の授業などで覚える描き方そのままかもしれませんけれど、水だったら水、空だったら空、木の葉だったら木の葉、人間の肌は肌色、そういった固有の色(ローカルカラー)があるというような考え方です。これは、アカデミーの画家たちが描いた作品を見るとその通りに表現されています。
それに対して印象派の画家たちは(例えば人物では)その場の肌の肌色ではなく、固有色ではない色彩を画面の中にちりばめていきました。例えば、このルノワールの《陽光の中の裸婦》という作品です。
これはたいへん辛辣な批評を書くことで知られていた、アルベール・ヴォルフという美術評論家がいます。ヴォルフはマネに対しても辛く書きましたし、印象派にも厳しい態度を取っていたものですから、印象派の不倶戴天の敵と目され、後の美術史家たちの評価はたいへん低い批評家です。つまり、まったく新しいものの評価ができないダメな批評家だと書いているのですけれど、意外なことにマネを正当に評価し、後の時代が続くであろうというようなことを書いているのも、このヴォルフがごく早い例なのです。
もっとも、一方的に印象派を持ち上げるだけでもなく、貶めるだけでもなく、ちゃんと良い点悪い点も、そして、ここが重要なポイントなのですけれど、印象派、あるいはマネの時代における役割をしっかりと見定めながら、その上で美術評論家、アートディーラー、画家たち自身がいかに振る舞ったかということを見抜いていたのが、ヴォルフなのです。
●印象派の地位と評論家の存在
印象派の評価は、最初から確立していたわけではありません。逆にいうと、印象派が評価され、かつ売り物になるというのは、誰かがその評価を固めて、誰かが売って、誰かが買わないと成立しません。
かつては王侯貴族、あるいは教皇、あるいは皇帝が自分の思うような作品を買い上げていればよかったので、そのときに注文されたのは歴史画でした。アカ...