「AI親友論」という出口康夫(京都大学文学研究科教授)氏の議論がある。「Self-as-WE」(われわれとしての自己)という考え方で、AIが友人として入っても何の問題もないのではないかという議論だが、これに対して中島氏はどう考えるのか。京都学派的な関係優先の思想を取り上げながら解説する。(2025年7月12日開催:早稲田大学Life Redesign College〈LRC〉講座より、全7話中第5話)
※司会者:川上達史(テンミニッツ・アカデミー編集長)
≪全文≫
●「Self-as-WE」の議論におけるAIとは
―― もう1つ。話が変わりますが、いただいたレジュメの中で、出口康夫(京都大学文学研究科教授)先生(の『AI親友論』)の引用もされていました。
そして、先ほど中島先生からHuman Co-becomingのお話もありましたけれど、出口先生もどちらかというと、「われわれ」というような概念で、その中にAIを入れ込むような議論展開をされているということですが、その議論のご紹介と、そこの議論と中島先生の議論の違いというか、そのところから浮かび上がってくるものを教えていただけますか。
中島 出口さんは私とだいたい同世代です。それで、当然ですけれど、『ドラえもん』とか、『アトム』とか、あのようなイメージがどうしても出てくるわけです。『AI親友論』ということですが、なんとなくそういう人型のロボットというものをイメージされているのではないかと思うわけです。
その議論のポイントは、「Self-as-WE」、(つまり)「われわれとしての自己」という考え方です。「わたし」というあり方は、ヨーロッパ的な個人、Individualismです。Individualityとして独立しているものではなく、「われわれ」の中で成立してくるものだと。それが「わたし」なのだと。その「われわれ」の中に、AIが入ってもいいではないかというわけです。AIがともに冒険をする友人です。友人として入っても、全然何の問題もない。こういう議論をするわけです。
出口さんは京都大学の先生ですから、これはどこかで京都学派的な考え方を、意識的にか無意識的にか分かりませんが、やはり批判的に継承しないといけないとお考えになっているように私は見ているわけです。
では、その京都学派的な考えとは何かというと、それは「関係が主体に先立つ」ということです。西洋の考え方だと、主体があってその主体が別の主体と二次的に関係を持つ、こういう言い方をします。京都学派は、いやそうではないと。主体自体が関係の産物であると。つまり、関係がまずあり、そこで主体が浮かび上がってくる。そういうことなのではないかと。
「Self-as-WE」というのは、まさにその現代版、「われわれとしての自己」です。まず「われわれ」という関係性があって、その中で自己が定義されていく。こういう考え方なのです。それはそれで、1つの哲学的な判断といいますか、方向性だと思います。
ただ問題...