「仏法僧の三宝を敬いなさい」という仏教の教えがある。中でも問題なのは僧、つまり人である。思考は1人で行うものではなく、人と人との対話を通じて行う共同行為で発見的プロセスである。つまり、1人では妄想に陥る危険があるという戒めなのだ。一方、AIはどうだろう。その場、そのときの価値観や状況に基づいて未来を語ることは可能なのか。対話から生まれる道徳的進歩がなければ、社会は衰えていくのではないだろうか。(2025年7月12日開催:早稲田大学Life Redesign College〈LRC〉講座より、全7話中第2話)
※司会者:川上達史(テンミニッツ・アカデミー編集長)
AI時代と人間の再定義
仏法僧の三宝――なぜ1人で仏教に向かってはいけないのか
AI時代と人間の再定義(2)仏法僧の三宝と対話による道徳的進歩
中島隆博(東京大学東洋文化研究所長・教授)
3.タイトル未定
2026年1月30日配信予定
4.タイトル未定
2026年1月31日配信予定
4.タイトル未定
2026年1月31日配信予定
5.タイトル未定
2026年2月6日配信予定
6.タイトル未定
2026年2月7日配信予定
7.タイトル未定
2026年2月7日配信予定
時間:13分11秒
収録日:2025年7月12日
追加日:2026年1月24日
収録日:2025年7月12日
追加日:2026年1月24日
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≪全文≫
●訂正可能性が思考を深化させる
―― あともう1つ、すごく興味深かったのが、先生がおっしゃった訂正可能性ですね。直す可能性のお話というのは大変興味深かったと思います。これは、よく生成AIに答えさせて、「違うでしょ」とやると、「おっしゃる通り間違いでした。こういうこともあります」というものを出してきますけれど、例えば先生がお若いとき、指導教官の方とか、あるいは若い学者仲間の方々と論争するときというのは、そのような「いやあ、間違えてました」のような話ではなく、「俺が考えたのはこうだ」という論争のようなこともやられたと思います。
それでこそ初めて、訂正可能性、要するにお互いこうなんだというのをガーッと(論争を)やったからこそ、「あっ、今までの考えって、もしかしたら自分は間違ってたかもしれないな」とか、相手の人も、どうも中島先生と話したらこういうことだったから、「俺の考えはちょっとここが違ったかもしれないな」とか、そういうような気づきの要素というのも出てくると思うのですけれど、この訂正可能性をもうちょっと深めていただくと、どういうことになりますか。
中島 単に、こう間違うということはありますね。先ほどの聞き間違いとか、見間違い。それはただ修正すればいいですけれど、ただ、考え違いをしているときというのは、実はいろいろなレイヤーがあると思うのです。
今ご紹介いただいたように、例えばある種の学問的な論争をするときというのはあります。私が若いとき、よく中国の古い学問的論争というものを取り上げてみたのです。いったいどうしてそれが論争として可能になっているのだろうと。だいたいの場合は、お互いの立てている「プロブレマティーク(Problematique)」といいますけれど、この問題系が異なっているのです。
―― それはどういうことですか。その問題系というのはどういうものですか。
中島 問題系というのは、どういう概念で世界を把握して、それがいろいろな問いと答えを生み出していきます。その世界のつかまえ方が問題系です。例えば、「心と体」という言い方をします。では、「心と体の関係について考えてみよう」というときがあります。そのときに一方の人は、「いやいや、心と体というのは全然別の概念だ」と。それをもとにして問題系を組み立てるわけです。
ところが、他方の人たちは、「いやいや、そうじゃなく...
●訂正可能性が思考を深化させる
―― あともう1つ、すごく興味深かったのが、先生がおっしゃった訂正可能性ですね。直す可能性のお話というのは大変興味深かったと思います。これは、よく生成AIに答えさせて、「違うでしょ」とやると、「おっしゃる通り間違いでした。こういうこともあります」というものを出してきますけれど、例えば先生がお若いとき、指導教官の方とか、あるいは若い学者仲間の方々と論争するときというのは、そのような「いやあ、間違えてました」のような話ではなく、「俺が考えたのはこうだ」という論争のようなこともやられたと思います。
それでこそ初めて、訂正可能性、要するにお互いこうなんだというのをガーッと(論争を)やったからこそ、「あっ、今までの考えって、もしかしたら自分は間違ってたかもしれないな」とか、相手の人も、どうも中島先生と話したらこういうことだったから、「俺の考えはちょっとここが違ったかもしれないな」とか、そういうような気づきの要素というのも出てくると思うのですけれど、この訂正可能性をもうちょっと深めていただくと、どういうことになりますか。
中島 単に、こう間違うということはありますね。先ほどの聞き間違いとか、見間違い。それはただ修正すればいいですけれど、ただ、考え違いをしているときというのは、実はいろいろなレイヤーがあると思うのです。
今ご紹介いただいたように、例えばある種の学問的な論争をするときというのはあります。私が若いとき、よく中国の古い学問的論争というものを取り上げてみたのです。いったいどうしてそれが論争として可能になっているのだろうと。だいたいの場合は、お互いの立てている「プロブレマティーク(Problematique)」といいますけれど、この問題系が異なっているのです。
―― それはどういうことですか。その問題系というのはどういうものですか。
中島 問題系というのは、どういう概念で世界を把握して、それがいろいろな問いと答えを生み出していきます。その世界のつかまえ方が問題系です。例えば、「心と体」という言い方をします。では、「心と体の関係について考えてみよう」というときがあります。そのときに一方の人は、「いやいや、心と体というのは全然別の概念だ」と。それをもとにして問題系を組み立てるわけです。
ところが、他方の人たちは、「いやいや、そうじゃなく...