1938年3月、マイナス20度の極寒に達するソ連と満州国の国境オトポール駅で、ナチスの迫害から逃れてきた多くのユダヤ人が凍死の危機に瀕していた。ドイツとの同盟関係を理由にビザの発給が拒まれる中、ハルビン特務機関長の樋口季一郎が自らの失脚も覚悟のうえで、彼らの救済を決断する。これが「オトポール事件」の概要だが、なぜ彼はそう決断したのか。さらに、実はその3カ月前にハルピンで開かれた「極東ユダヤ人大会」でも樋口季一郎は「覚悟の演説」を行なっていた。人道を貫いた名将・樋口の信念と、彼と東條英機との意外な舞台裏に迫る。(全5話中第2話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツ・アカデミー編集長)
≪全文≫
●ナチスによる弾圧下でユダヤ難民救出へ動いた樋口の決断
―― ある意味で、そのような活動を通して、ヨーロッパの状況も重々分かった上で、ちょうど今の事件でいいますと、昭和12年(1937年)の8月に陸軍少将に進級して、ハルビンの特務機関長になるわけですね。
早坂 そうですね。
―― この昭和12年のハルビン特務機関長であった時代に、当然、ヨーロッパのほうではナチス政権が非常にユダヤ人迫害を強めている時期でもありますから、そのオトポール事件が起きるということなんですが、この事件の概要はどういうことになりますでしょうか。
早坂 これは、時期としては昭和13年(1938年)の3月なのですけれど、場所はオトポール、満州里という、シベリア鉄道のサバイバル線という支線があるんですが、そこのソ連側の駅がオトポールで、国境線をはさんで満州側の駅が満州里なのです。
ヨーロッパでだいたい1933年頃からナチスのユダヤ人に対する弾圧が始まって、どんどん広がっていくわけです。ドイツで家や町を追われた人たちが最初はポーランドに入るのですけれど、ポーランドもいい顔をしないわけです。
行くところを失ったユダヤの難民が次にめざしたのはロシア、シベリアなのです。ロシアは一旦受け入れるのです。というのは、シベリア開発のためにユダヤ人の力を利用しようということで、ビロビジャンというのですけれど、ユダヤ人居住区を新規に作りまして、そこに一旦は受け入れるのです。
ところが結局、ユダヤ人はドイツやポーランドなどで都市部にいた都市生活者ですから、厳しいシベリアの開発という作業はまったくできなかったわけです。それが分かったロシアは「すぐに、出ていけ」ということで、また政策を変える、排斥していくわけです。
そこで、行き先を失ったユダヤ人の人たちが助けを求めた先が満州国だったわけです。シベリア鉄道に乗って東へ向かって逃げてくる、そういう状況です。それが昭和13年3月なのですけれど、そのときに満州のハルビンの特務機関長だった樋口のもとに一報が入るわけです。
樋口としては、先ほど言ったように、ワルシャワでの生活が3年ほどあって、それ以前にもウラジオストクやハバロフスクでも生活していたということで、ユダヤ人に対する問題は肌で感じていたわけです。特にワルシャワがそうですけれど、ユダヤ人がどういう状況にあるのかというの...