保守的かつ現実的だった井伊直弼が先駆的な政策として唱えた「開国」論には、当時の将軍・徳川家定の継嗣問題が絡んできた。本来別々の問題である二つが結びつくことになったのは、水戸藩・徳川斉昭の存在が大きい。斉昭は「尊王、攘夷、佐幕、敬幕」という並立しようもない理想を声高に叫ぶ人物だった。(全4話中第2話)
※インタビュアー:神藏孝之(テンミニッツTV論説主幹)
≪全文≫
●鎖国は「神君以来の御定法」ではないという先駆性
山内 政権は別に保守的であってもいいのです。ただ、その対外政策に関しては、そこから1つ超えて、むしろ徳川幕府だって、家光のときにいくつかの鎖国令が出されることによって、こういう状態になったのではないですか。三代様の以前、つまり家光以前の秀忠や家康のときには開国していたわけです。
ですから、徳川幕府が全体として、あるいは家康(権現様)がそれを禁止したというわけでも何でもないという理屈も成り立つわけです。その幕府の立て直しのために、もう1回徳川の治世を振り返ってみると、必ずしもそれ(鎖国)にこだわる必要もないだろう。それは、ある面で松平定信にもあった考えです。
井伊直弼の唱えた理屈を見るにあたって、定信クラス(の人物)で他に評価する人はいません。定信は吉宗の孫であり、将軍職に就いたかもしれない(人物ですから)。
―― そうですね。その可能性が高かったと。
山内 その可能性があった人物と比べても駄目で、臣下としての最高が井伊だった。臣下としての井伊の考え方というのは、事実上家斉の「将軍補佐」としてのものです。家斉が未成年だった頃に補佐したのは、徳川の家族である定信でした。井伊は家臣としてとはいえ、定信の考えに近いもの、あるいはそれ以上先に行って、「開国」というところにまで行った。これは、相当思い切ったことです。
井伊が持つ思い切った政策転換方針は、彼の保守性あるいは赤備えに象徴される井伊家の保守性や伝統性のようなもので隠れてしまっています。
―― そうですよね。そこが見えにくいわけですね。
山内 見えにくいのです。でも、実際のことをいえば、「赤備え」という井伊家のシンボルは、徹底した平和主義です。平和主義だったため、彦根は武器の近代化や西洋化などに関しては遅れを取ってしまったわけです。
―― なるほど。平和主義だったというところがポイントですね。
●古さと新しさが入り混じる彦根藩井伊家
山内 幕府の政策として、洋化──洋式軍艦を造る、台場を造る──という点に関しては(井伊は)確実に行っていきました。しかし、井伊家の彦根藩は内陸の藩であり、水戸藩などと違って海洋には直接接していないのです。
―― 確かにそうですね。
山内 ええ。しかし、家斉から家慶の時代になってくると、海防の強化という方針があっ...