●児童向けに編纂した『小学』がテキスト
それでは、まず寺子屋で何を教えたのか。これは、これまでにも言っているように、自由なかたちで教育が行われていましたから、それぞれの家風、あるいは、藩であれば、藩の方針でかなり違うわけですが、大体のところで教えられたテキストに、『小学』というものがあります。
これは、朱子(朱熹)が編纂した書物です。朱子は、ばらばらにあった儒教の教えを四つの書(四書)として編纂、確立したわけでありますが、それをやりながら、子どもはとても大切なもので、子どもに読んでもらえるようなものにしなければいけないということで、中国古典の中から四書を中心に、幼児、児童に対して、ここは重要だと思えるところをピックアップし、『小学』としてまとめたのです。
●清掃で整理整頓、清々しさ、愛着心を体得
『小学』の巻頭に「小学書題」があります。「小学書題」は、朱子がなぜ自分は『小学』を編纂したのか、その意図が書いてあるのですが、冒頭に「古の小学、人を教ふるに、灑掃(さいさう)、應對、進退の節、親を愛し長を敬し師を隆(たっと)び友に親しむの道を以てす」とあります。これこそが、要するに基本なのだと言って、まず「灑掃、應對(応対)、進退の節」というものを挙げるのです。
「灑掃」とは、清掃のことです。したがって、まず幼年期、徹底して訓練させなければいけないのは清掃だと、ここで言っているわけです。なぜ清掃が重要なのかというと、まず第一が整理整頓能力を身に付けるためです。いろいろな問題が襲ってくるのがリーダーですから、これを整理整頓して片付けることが基本となります。二番目が、清々しさを体得するためです。これも、要するに、清々しいところは全部聖なるところで、聖なるところと俗なるところをしっかりと見極める、そういう視点をつくるということです。三番目は、物事に愛着を持たせるということです。愛着心があるかどうかということは、人間としての忍耐や粘りにも非常に大きな関わりを持ちます。よって、当事者意識、あるいは、愛着心を持たせるためには、拭き掃除や、物を磨かせるという清掃が非常にいいわけです。
●応対は、挨拶・返事から書き写す訓練まで
二つ目の「応対」は、実は全ての人間が行っていることで、私も皆さんに応対をしているわけです。仕事、会社は何をしているのかというと、応対をやっている人の集団です。ですから、応対力がどのくらいあるかで優秀なビジネスパーソンであるかどうかに分かれ、応対力がある会社は、要するにサービス力がある会社ということになるわけです。こういう大切なものこそ早いうちから教えなければいけない。そうしないと、身に付かないということで、応対をしっかり教えたわけです。
応対の最初は挨拶、返事です。これは父親と母親から習うため、家庭教育の中から挨拶、返事という応対の要点についてしっかりと教えたということです。例えば、両親が留守のときに、小学校1、2年生の子どもが留守番をしていると、隣のおばさんがやってきて、「お母さんはおられますか?」と聞かれたら、「只今、母は出掛けております」と答える。次に、「あ、そう。じゃあ、隣のおばさんが来て、こうこうこうしてくださいというふうに言って帰ったとお伝え願いたい」と言われたら、「それでは、母が戻ったら、隣のおばさんがやってきて、これはこうこうこういうふうにしてくださいということを伝えてほしいと言って、お帰りになったと伝えます」と答える。こういう応対を何度も訓練するわけです。
さらにもっと高度な応対になるとどうなるか。よく「読み・書き・そろばん」が基本だといわれますが、そのときの「読む」は後で申し上げる「素読」のことですが、「書く」は、実は今のようにただうまい字を書く書道ではなく、手紙を書き写すことが当時の「書く」でした。それはどうしてかというと、つまり、人間は書いているうちに覚えるからです。そういう意味では、「書く」という行為を通して、自分のあり方をしっかりと見極め、応対の能力を身に付けるのです。これには、3千から4千種類もあったといわれていますが、さまざまな商売の違いに応じた往来物、例えば、魚屋の往来、農事往来、庭訓往来といった往来物を書き写したわけです。これなども社会人になるための徹底訓練であったのです。
●進退はやめどきを知ること
次は「進退」ですが、要するにやめどきを知るということです。現代などもなかなかこれのうまい人が見当たらないように感じるわけですが、これも子どものうちから訓練しなければいけません。自分が遊んでいるときに父親や母親から呼ばれて、すっと抜けるときのタイミングや、その言い訳など、そういうことをだんだんと身に付けていくことが進退なのです。
こういうこ...