●震災復興計画策定の決め手は「スピード」と「全国レベルの衆知の結集」
---- (宮城県の震災復興計画は、宮城県震災復興会議に外部の有識者を集めて)2ヶ月半で作ってしまった。あのスピード感ですね。
村井 そうですね。あれが非常に大きかったと私も思っています。当然、県議会でも、「宮城県には優秀な人がいるのに、なぜ県外の人ばかり集めたのか」という批判もありました。
でも、私は、まずは全国からいろいろな衆知を集めて、ベースとなるものを作り、その上で県内にあるいろいろな組織の人たちに相談をして、それに肉付けをしていこうと思って実行しました。まず骨格の部分は、それこそ全国レベルから衆知を集めるということをやったのです。それは非常によかったと、今、思っています。
---- 本当にすばらしいスピード感でしたね。外部から衆知を集めて、しかも開催4回で計画の幹を立てるところまで持ってくるというのはすごいと思います。
村井 あのときは突貫工事で大変でした。
---- 岡田(新一)先生などがいい絵を描いてくれましたね。あのようなことは、やはりすごいと思うのですが、県内の人、県庁や県議の人たちにとっては、基本的におもしろくないでしょう。けれども、それを待っていたらずるずるいってしまいますね。
村井 そうなのです。ですから、同じように被災を受けた県では、まったく従来と同じやり方で、県の中の、例えば何々長や何々会長さんといった肩書きのある人たちだけを集めて、復興計画を作った県もあるのです。私のところはまったく逆のやり方をしたので、「なぜほかの県のようなやり方でやらないのだ」というような批判はたしかにありました。
しかし、私はあのやり方は間違っていなかったなと、今、そう思っています。
---- しかし、実際問題として、宮城の復興計画は実際の進捗状況と合っていますよね。あのときに復興計画に盛り込んだ漁港の集約、公設民営、仙台の話、空港の話、片っ端から手を付けていきました。すごいですね。
村井 もう絵に描いた餅にはしたくなかったので、あの復興計画にはきちんと書き込みました。また、あとで検証したときに、「なんだ、書いただけだったな」と言われたくなかったのです。
やはり、水産業復興特区などは、やれるかどうか非常に微妙だったのです。もう本当に高い壁の上をそろりそろりと歩いているような感じで、ちょっと踏みはずすと落っこちてしまうという、それぐらい難しい判断を迫られました。
---- あれはナローパスでしたね。すごく狭い道でした。
村井 はい、まさにナローパスでした。桃浦という浜でやったのですが、漁師さん方が全員参加してくださったら簡単だったのですが、中には自分でやりたいという方もおられて、その人たちの部分だけ切り取らなければいけなかったのです。切り取ったところについて、その人たちに「自分は納得しない」と言われてしまうと、全部だめになってしまう。要は、「自分たちは特区には賛成しない」という方たちなので、その人たちにご理解をいただかなければいけなかったというのは、非常に難しかったです。ですから、最後その人たちになんとかご理解いただきたいということで、何度もお会いしてお願いをして、そしてようやく受け入れていただいたのです。今は、非常にいい関係になってよかったなと思っています。
●自らが前に出ていくことで困難な局面を打開
---- しかし、これは最初は大変ですよね。そのやり方で65歳、70歳までやってきた人たちに、「今から公設民営でいきましょう」「漁港を集約したほうが効率がいいですよ」と言う。そこを説得するのは、グレートコミュニケーターとして一番難しいことです。
これをやり遂げることができた要因は何だったのでしょうか。
村井 やはり自分が前に出ていくことだと思います。こういうときに、自分が後ろに下がって職員を使って、「何して、あれして」とコントロールしていたら、絶対できませんでした。
自分が出て行って、逆に、職員から「知事、少しまだ早いですよ。もう少し待ったほうがいいですよ」と言われても、どんどんやっています。
例えば、水産業復興特区では、納得されないという方に直接私がお会いして、説明をし、理解してほしかったのです。そして食事をしたりしながら、いろいろ情報交換をしました。やはり大事なのは、人間関係ですね。
気仙沼の一番大きな中心地の防潮堤の話がもう間もなくまとまるのですが、住民の皆さんと、高さのことで非常にもめまして、それも私は2回行って、直接お話ししました。
最初に行って説明したときには、もう全然だめで玉砕でした。しゅんとして家に帰ってきて、またいろいろ作戦を練って、次にまた別の提案をして。
そうしていくうちに、だんだん次元が上がっていっ...