●菅官房長官が最も評価していた役人は香川氏だった
香川俊介氏の目『正義とユーモア』を制作した時、読売新聞特別編集委員の橋本五郎氏が、紙面上で追悼文を書いてくれました。香川氏の特徴を非常によく描いてくれています。中でも菅義偉官房長官と香川氏のやり取りは、興味をそそります。
菅氏が役人の中で最も評価していた人の一人は、香川氏でした。しかし、香川氏が消費増税に向けて動けば政局になってしまうから、そんなことはやめてくれと、菅氏は諭したそうです。追悼文集の中に書かれています。
私は菅氏の原稿を読んだ時、大変驚きました。「確かに追悼文集はプライベートで発刊しますが、内容は必ずマスコミに漏れます。こんな内容を載せても構わないのでしょうか」と菅氏の秘書官に確認しましたが、それで構わないとのことでした。
●日本にも改革者がいないわけではない
また、読売新聞の望月公一氏が記事にしてくれましたが、追悼文集では歴史学者の山内昌之先生が、香川氏のことを日露戦争の前に亡くなった川上操六と田村怡与造という、2人の代表的な参謀に例えて、彼の死を悼んでいます。川上と田村は日露戦争に心血を注いで亡くなっていったのですが、同様に香川氏も日本の大いなる改革者だったという内容です。日本にも改革者がいないわけではないと、おっしゃりたいのだと思います。
『正義とユーモア』を作って非常に良かったと思うことがあります。現在、霞が関の中には改革官僚としてのロールモデルがいません。この追悼文集が役人たちのバイブルになれば良いなと思います。役人の中にはこんな生き方をした人がいたのだということが、この本を読めば分かります。
人間は死ぬ前に何かに残して置かなければ、すぐに忘れ去られてしまうものです。人間の記憶は当てになりませんから。その人生を文章に残すことで、機会があればそれを読み返し、香川俊介という人間をその人の心の中でよみがえらせることができます。
●「経営マインド」と「パブリックマインド」の両立が課題
今回お話したことをまとめましょう。松下幸之助は老人の道楽で政経塾をつくったとしばしば言われますが、老人の道楽などでは全くありませんでした。松下は真剣でした。政経塾1期生の若者を85才の人間が叱るということは、真剣でなければできません。「猫に小判だ」と言って真剣に叱りました。
その原点は、敗戦の時の理不尽な経験です。座敷牢に閉じ込められたような状況となり、全財産と事業までをも奪った、公への怒りです。政経塾はその時の怒りから始まっています。
政経塾出身の議員数は公明党よりも少し多い程度にまでなりましたが、それを松下幸之助は手放しでは喜ばないだろうと思います。松下が目指したのは、政治の名人、宮本武蔵のような名人をつくることでした。しかし、政経塾からはそうした政治の名人はまだ出ていませんし、草葉の陰でこんなはずではなかったと言っているのではないでしょうか。
また、今回は、中国の鄧小平の例を挙げました。鄧小平は間違いなく、松下幸之助から多くのことを学んでいます。天津に松下電器の工場ができた時、何度も視察に訪れ、どうすれば金が回るか、需要はどうやって生まれてくるのか学んだはずです。商売が分かる政治家でなければ、何事も成し遂げられないと分かっていたのでしょう。商売が理解できる「経営マインド」の部分と、公の心である「パブリックマインド」の部分を、どうすれば両立できるかが、松下幸之助の課題だったように思えます。
2012年に尖閣問題が起きた時、パナソニックと名前を変えた松下電器の工場は焼き討ちに遭います。松下電器という名前のままであれば、焼き討ちに遭うことはなかったかもしれないと思ったりすることもあります。いずれにしても、世界中で初めて造った近代工場が今や焼き討ちに遭う時代になったのです。国家経営を誤れば全員が不幸になるという典型例です。これが松下幸之助の原点にある問題意識でした。
●鄧小平の戦略は韜光養晦だった
また、リー・クアンユーですが、彼は非常に繊細でプライドの高い人物です。人前で絶対に涙を流すような人ではありません。その彼が、マレーシアから追い出されて、涙の独立演説をしました。
他方、鄧小平の戦略は「韜光養晦(とうこうようかい)」です。「能ある鷹は爪を隠す」という意味ですが、今の中国を見れば、江沢民以降に行ってきたこととはまるで逆です。できるだけ下手に出て、まずは経済を優先しています。鄧小平はこうした韜光養晦の戦略で、自ら日本にも来ましたし、アメリカにも行きました。
●日本は2つの間違った選択をした
日本の霞が関文化の悪い部分は、大蔵接待疑惑以来もう散々出てきていますが、その1割の悪...