●鄧小平は1978年、松下電器のカラーテレビ工場を訪れた
鄧小平は初来日した時、松下電器の門真市のカラーテレビ工場を訪れています。最新鋭の工場を訪れた際、「本日は幸之助先生に教えを請いに来ました」ということを言っています。これは今では考えられないことです。例えば、習近平国家主席がトヨタの工場を視察し、訪中を熱心に請い、仲良く会話するでしょうか。しかも、来日時の鄧小平の肩書は副首相でしたが、事実上は最高権力者でした。
彼の人生で圧倒的に面白いのは、起き上がりこぼしといわれるほど、失敗してはそのたびにまた復活してきたところです。特に興味深いのは、3回失敗したうちの2回目です。
●鄧小平のすごさは、絶対に諦めないことである
鄧小平は、毛沢東が「大躍進」で失敗した後、中国経済の総責任者として経済再建に取り組みました。大躍進では、最大でも4,000万人以上の餓死者が出ました。鄧小平は、経済再建に従事していることから反革命分子だと批判され、近衛兵を使って再び権力を取りに来た毛沢東に、役職を全て奪われてしまったのです。
彼のすごさは、それでも絶対に諦めないという点でしょう。北京大学にいた鄧小平の長男は、絶望して自殺を図り、半身不随になってしまいます。家族も離散させられました。にもかかわらず、鄧小平は毛沢東に手紙を書き続けます。この粘りが強烈です。周恩来とのコンタクトも、絶対に絶やそうとはしません。鄧小平は有能な経済設計者でしたから、もし毛沢東が抹殺していれば、今の中国の経済発展はあり得ないでしょう。鄧小平は能力とともに怖さも兼ね備えていたのです。
そして、周恩来の計らいで再び復帰することになります。中国は経済的に立ち行かなくなっていた矢先、四人組事件も起きていました。そうした混乱の時期に鄧小平は復活を遂げますが、周恩来はがんに侵されて亡くなってしまいました。
天安門事件は2度起きているのですが、1回目は、周恩来の死去を惜しむ民衆が大量に集まったことで始まります。民衆があまりにも周恩来を支持しているということを見た毛沢東は、再び鄧小平をつぶそうとします。しかし、毛沢東の寿命の方が尽きるのが早く、結果的にはそれ以降、鄧小平の時代が30年間続くことになりました。