●日本に改革者が全くいなかったわけではない
日本は現在、GDPの240パーセントもの借金を抱えてしまいました。しかし、ここまでに至る中で、日本に改革者が全くいなかったというわけではありません。私の30年来の友人に、香川俊介氏という方がいました。
彼は2015年に、がんで亡くなってしまいました。彼が亡くなった後、彼のための追悼文集に『正義とユーモア』という題を付けて、同時代を一緒に生きた仲間や先輩方とともに制作しました。どうしても追悼文集を残しておかなければならないと感じたからです。
彼は高校1年生の時、父親ががんにかかります。彼の父は社長候補だったのですが、水俣の工場長を任され、がんになりました。香川氏は、高校1年生から大学1年生まで、父の闘病を支えながら過ごしたわけです。
開成高校から東大に入り、何とか母に楽をさせようと、当初は弁護士になって稼ぐつもりでいました。しかしあまりにも優秀だったため、東大法学部のゼミの先生が、国のために尽くすべきだと言って役人になるよう勧めたのです。そこで彼は大蔵省の役人になりました。
私がちょうど松下政経塾の塾生になった1年目に、彼と出会いました。彼は大蔵省に入って3年目くらいでした。お互いに若い時代に出会ったので、それ以来、おそらく人生で最も一緒に飯を食い、飲んだ仲間になったと思います。20代、30代、40代、50代と、お互い年を重ねるにつれ、収入も増えてきますから、飲み食いする店は変わりましたが、会う回数は1年間でおよそ40~50回のまま変わりませんでした。
●税金が雲散霧消する仕組みがすでにできている
彼の人生を見ていて、日本というのは非常に面白い国だと感じたことがあります。構想を練り、大きな絵図面を描いて、それを根回しするという仕組みがどこにあるのか、全く分からないことです。鄧小平やリー・クアンユーのような政治家がそうしたことを行っていたのか、あるいは霞が関の中でそれが行われていたのか、彼の人生を見ていても、全く分かりませんでした。
むしろ日本の生態系は、財務省や経産省、外務省、警察、検察が横に連携して、霞が関の連合政府のような形で存在しているのかもしれません。各省に入ったキャリア組20数人のうちでも、1軍、2軍、3軍とグループが分かれ、1軍は1軍同士と付き合うことになります。このような上下関係ができてきます。
かつては、大蔵省主計局を中心として、各省の1軍の面々がインナーグループを形成していました。そしてその中で、日本の状況を何とかするために構想を練るということが行われていたようです。
財務省のせいでGDP比240パーセントもの借金ができたという言い方もできるでしょうが、彼らに言わせれば、政権を維持するために金をばらまき続けた結果だという言い方もできるでしょう。
増税する代官は悪代官という観念がありますから、本当は集めた税金が雲散霧消しないよう大事に使うべきでしょう。しかし、雲散霧消する仕組みがすでにできてしまっていて、国家予算のうち差配できるのは25パーセントしかない状態です。
●2012年8月、社会保障・税の一体改革関連法案が成立
香川氏が大蔵省に入ったのは1979年です。政府債務残高のGDP比は50パーセントに達しようかという時期でした。当時、大蔵省主計局が実質的に日本の政治を担っていました。彼の持論は、自民党が野党のときにしか消費増税はできないというものでした。
大平正芳元首相の弟子である谷垣禎一氏が野党時代の自民党総裁の頃、たまたま香川氏と私とほぼ同級生で政経塾でも一緒だった野田佳彦氏が首相になりました。野田氏は財務副大臣、財務大臣を務め、このままだと国家破綻するという危機意識を持っていました。そこで、このタイミングしかないという時期を狙って、2012年8月に、社会保障・税の一体改革関連法案を成立させることができたのです。
この決断は、国民にとって不人気なことをするときには与党も野党もない、これこそ進化した民主主義だと一部からは評価されました。しかし、このプロジェクトに全く関わらなかった安倍晋三氏が政権を取った後、消費税が8パーセントに増税されたため経済がうまくいかないという話になって、さらなる増税が延期されるわけです。
●一財務官僚として総理と官邸を相手に戦いを挑んだ
香川氏がすごかったのは、一財務官僚として総理と官邸を相手に戦いを挑んだことでした。自民党と公明党の中の根回しも終え、ほとんど香川氏の勝利は確定していたはずでした。しかし、安倍首相が2014年11月に解散を切り出したのです。選挙の結果、増税の延期が決定し、結局は香川氏の負けに終わってしまいます。ですが、香川氏はそれでもさらに戦い続けました。菅義偉官房長官の3年目、すでに...