テンミニッツTV|有識者による1話10分のオンライン講義
ログイン 会員登録 テンミニッツTVとは
社会人向け教養サービス 『テンミニッツTV』 が、巷の様々な豆知識や真実を無料でお届けしているコラムコーナーです。
DATE/ 2022.03.03

悪口とは何か―『悪い言語哲学入門』に学ぶ言葉の意味と働き

 セクハラやモラハラ、パワハラなどのハラスメント、ネット中傷やヘイトスピーチ。最近、ニュースで取り沙汰されているこれらの問題は「言葉の暴力」と表現されることがあります。私たちがふだん何気なく使っている「言葉」に端を発しているというわけです。

 ではなぜ言葉が「暴力」になるのでしょうか。言い換えるなら、「悪い言葉」あるいは「悪口」とは何でしょうか。なんとなく分かっているようで、説明しようとすると難しい、この素朴な疑問に迫るため、今回参照したいのは『悪い言語哲学入門』(和泉悠著、筑摩書房)という書籍です。著者の和泉悠氏は南山大学人文学部人類文化学科准教授で、専門分野は言語哲学、意味論。罵詈雑言や差別語、ヘイトスピーチの仕組みなど言語のダークサイドへの関心があり、その研究の成果として結実したのが本書といえるでしょう。

「アホ」と「賑やかですね」は悪口か

 さて、ひとくちに「悪口」といってもいろいろあります。たとえば、誰かがあなたに対して「アホ」と言ったとしましょう。これは悪口でしょうか。「アホ」は悪い言葉だから「当然、悪口だ」と断定したくなりますが、実は必ずしもそうとは言えません。どんな場面で、誰が発言したのかによって、言葉の「意味」が大きく異なるからです。

 もうひとつ例を挙げましょう。「とっても賑やかですね」という発言はどうでしょうか。言葉の表面だけなぞるなら、これが悪口とは思えません。しかし、これも、発言の場面と発言者によって言葉の意味が大きく変化します。「(本当は)うるさいから静かにしてほしい」という意味を込めて、嫌味でそう言っていたとしたら、どうでしょう。

 この二つの例も言語学から観点からより明晰に分析することができます。

悪口を見極める「文脈」と「行為」

 先ほどの例の「アホ」という発言については、「文脈」という言葉で説明することができます。つまり、「誰が誰にどのような状況でどのような目的や意図を持って言ったのか、そして帰結はどのようなものなのか」を見極める必要があるということです。

 「言語行為論」という考え方に触れることで、さらに踏み込んで考えることもできます。「文脈によって評価が変わるもの」は言語にかぎりません。言語を含めた「私たちのすること」すべて、すなわち「行為」がそれに当てはまります。悪口は「言語の一部」であり、「行為の一種」であると捉えることもできるのです。

 そうすると、悪口の多様性と日常性をよりいっそう浮かび上がらせることができます。例えば、罵る、悪態をつく、おとしめる、くさす、けなす、辱める、からかう、馬鹿にする、揶揄する、呪うなどもすべて「悪口の言語行為」に当てはまります。さらに、沈黙させる、従属させる、ランクづけするなどもそこに含まれます。特に「ランクづけする」は悪口を考えるうえで非常に重要な意味を持つので、後述します。

「会話の含み」を悪口に利用する

 「とっても賑やかですね」の例についても考えてみましょう。こちらは「会話の含み」という観点から説明することができます。「会話の含み」とは「真理条件的内容以外で、話者が聞き手に伝えようと意図したこと」です。

 「真理条件的内容」については少々説明が必要ですね。和泉氏は「意味の働き」を次の四つに分類しています。「真理条件的内容」「前提的内容」「使用条件的内容」、そして「会話の含み」です。「真理条件的内容」も「会話の含み」も「意味」の分類の一つだというわけです。

 「真理条件的内容」は、言葉としては難しいですが単純なことです。文章や発言が「正しい」ということを指しています。「会話の含み」は「真理条件的内容以外で、話者が聞き手に伝えようと意図したこと」ですから、悪口に利用するときには「真理条件的内容から遠ざかる」ことで、つまり、なるべく遠回しの言い方によって伝えることで、「そんなことを言ったつもりはない」と言い逃れすることもできるのです。

なぜ悪口は悪いのか

 以上の二つの例から、悪口について大きく次のことを導き出すことができます。一つは、悪口は「表現の種類」によって決まるわけではないため、「行為」の観点から考えた方がいいということ。もう一つは、当然といえば当然のことなのですが、言語の「意味」が多様であるからこそ、悪口も多様であるということです。

 これが、結局のところ「悪口とは何か」「なぜ悪いのか」という最初の疑問の答えにもつながってきます。悪口の重要な言語行為の一つとして、「ランクづけする」という例を挙げましたが、結論をいえば、悪口が「なぜ悪いのか」というと、「あるべきでない序列関係・上下関係を作り出したり、維持したりするから」です。

 「序列関係・上下関係」というのが「ランキング」のことです。私たちはさまざまな違いはあるにしても、そもそも平等な存在であるはずです。「ランクづけする」という行為はその人権を踏みにじる行為です。言葉によってランキング化し、権力の上下関係を生み出します。これは、ヘイトスピーチにも象徴されます。

ヘイトスピーチとは「ランクづけ」

 ヘイトスピーチは、EU理事会によって「人種・皮膚の色・宗教・血統・国民的あるいは民族的出自などを含む、特定の特徴にもとづいて、集団や個人に向けられた暴力や憎悪をおおやけに扇動すること」と定義されています。言語学的に考えると、ヘイトスピーチは、【「A人」という集団】は【「B人」という集団】よりも優れているという図式である「A人集団>B人集団」のランキングを押し付ける行為です。

 ヘイトスピーチにおいて、攻撃対象となる集団をおとしめる表現として「ゴキブリ」や「ヘビ」といった「ヒト以外の生き物」を使う理由もこの「ランクづけ」という観点から導き出すことができます。そして、そこにはすでに「ゴキブリ」や「ヘビ」に対しても「ヒト以下」と「ランキング」する発想が潜んでいます。

 ランキング行為の何が恐ろしいかといえば、暴力や差別の正当化につながることです。さらに恐ろしいのは「無邪気に」、差別の意図を持たずにランクづけや差別的発言をしてしまう可能性が誰にでもあるということです。そんなとき、よく「差別する意図はなかった」「悪意はなかった」「差別とは知らなかった」という弁解を聞くことがあります。

 けれども、こうした言い訳は言語学的にいっても、「意味の外在主義」という立場から考えてみると、決して許されることではないということです。「話者の意図」とは関係なく、差別的表現を使った時点で、「差別的な構造の維持に貢献しているかもしれない」からです。

 冒頭にも書いた通り、ハラスメントもネット中傷もヘイトスピーチも私たちがふだん何気なく使っている「言葉」に端を発しています。言葉がいかに恐ろしい武器になるのか。和泉氏は次のように書いています。

「少なくとも、私たちは、言語がときとして、大事故を引き起こすタンカーや航空機のように、人を傷つけ、社会を壊すことがあることを忘れてはならないでしょう」

 そして、そのことを忘れないためにも、本書は貴重な一冊といえるでしょう。

<参考文献>
『悪い言語哲学入門』(和泉悠著、筑摩書房)
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480074553/

<参考サイト>
和泉悠先生のホームページ
https://sites.google.com/site/yuizumi/home
~最後までコラムを読んでくれた方へ~
自分を豊かにする“教養の自己投資”始めてみませんか?
明日すぐには使えないかもしれないけど、10年後も役に立つ“大人の教養”を 5,100本以上。 『テンミニッツTV』 で人気の教養講義をご紹介します。
1

なぜアメリカはロシア、中国より圧倒的に地理的優位なのか

なぜアメリカはロシア、中国より圧倒的に地理的優位なのか

地政学入門 歴史と理論編(3)地政学でみたアメリカ・ロシア・中国

国や地域がどこに位置するかという普遍的な要素から、国際政治の歴史や情勢を分析する地政学。今回はアメリカ、ロシア、中国という3つの大国を例にとり、地図を俯瞰しながらどのような分析が可能になるかを具体的に見ていく。ラ...
収録日:2024/03/27
追加日:2024/05/14
小原雅博
東京大学名誉教授
2

なぜ「父祖の遺風」がローマと江戸に共通する価値観なのか

なぜ「父祖の遺風」がローマと江戸に共通する価値観なのか

ローマ史と江戸史で読み解く国家の盛衰(1)父祖の遺風

1200年に及ぶ古代ローマ史と、260年以上続いた江戸時代。この二つの歴史は、国家や組織について学ぼうとする者には宝の山である。本シリーズは、古代ローマ史がご専門の本村凌二氏と江戸時代を中心に執筆活動を行う中村彰彦氏の...
収録日:2019/08/06
追加日:2019/12/19
3

全てが悟りに至る道…日本は茶や花や野球にも「道」がある

全てが悟りに至る道…日本は茶や花や野球にも「道」がある

石田梅岩の心学に学ぶ(6)禅から茶道へ

道元の『辨道話』には「修証一等」の言葉がある。修行も悟りも同じことであり、修行は特別なことではないことを説く。坐禅だけでなく茶をふるまうのも花を活けるのも、生きることそのものが修行になる。ただし、ただ生きるのと...
収録日:2022/06/28
追加日:2024/05/13
田口佳史
東洋思想研究家
4

法曹界の『人間観』は間違い?脳の働きから考える「善悪」

法曹界の『人間観』は間違い?脳の働きから考える「善悪」

ヒトはなぜ罪を犯すのか(1)「善と悪の生物学」として

“ヒトの罪とは何か”――この問題について、法学や哲学的アプローチでなく、進化生物学・進化心理学的視点から考察するのが今回の講義の趣旨である。ヒトが社会的動物として集団生活を送る中で個人間に利害対立が生じ、これを調整...
収録日:2023/12/11
追加日:2024/02/25
長谷川眞理子
日本芸術文化振興会理事長
5

ノーベル賞受賞「オートファジー」とは?その仕組みに迫る

ノーベル賞受賞「オートファジー」とは?その仕組みに迫る

オートファジー入門~細胞内のリサイクル~(1)細胞と細胞内の入れ替え

2016年ノーベル医学・生理学賞の受賞テーマである「オートファジー」とは何か。私たちの体は無数の細胞でできているが、それが日々、どのようなプロセスで新鮮な状態を保っているかを知る機会は少ない。今シリーズでは、細胞が...
収録日:2023/12/15
追加日:2024/03/17
水島昇
東京大学 大学院医学系研究科・医学部 教授