●「武運」は磨くことができるか
次に、こういうことに似た日本のケースを見ていきます。運にもいろいろあるけれど、侍たち、剣術家たちにとって大事な運は何だったと思いますか、皆さん。
宮本武蔵、柳生十兵衛、あるいはそういう種の人物たちにとって、金運(金の運)が大事だったか、あるいは女運(女性運)が良いか悪いかということが大事か。いずれでもありませんね。
彼らにとって大事なことは、武芸と一緒に並び称される「武運」です。つまり、実際の自分の剣術、あるいは戦において運が味方するかどうか。それを彼らは「武運」と呼んだわけです。
そうすると、次のことは彼らにとって永久の問いだったわけです。武芸というアート、そして武術というテクニックは、どちらが大切か。あるいはどちらも大切だとすれば、どうやって両立は可能か。なかなか難しい問題です。皆さんはどう答えるか。
ちょうど5代将軍・徳川綱吉から8代将軍・徳川吉宗にかけて活躍した儒家(儒学者)に室鳩巣という人がいました。江戸時代の人間たちも、この室鳩巣に対して問いをしたのです。室鳩巣は当時、一流の学者であり、かつ吉宗の政治顧問だったような人間です。
すると、彼は思いがけないことを言いました。要するに、武芸というものは職業だから稽古、トレーニングが大切なことは言うまでもない。だけれど、武運というものが尽きれば、侍にとっても武家にとってもどうしようもない。したがって、武運が大事なのだ。武芸はきちんと磨いて当たり前だ。けれど武運もきちんと磨くべきだ、と。
そうすると、普通の人間はここで疑問に思うわけです。「武芸を磨く」ということは分かる。練習を行っていけば、ある程度まで剣道、剣術も強くなるし、人と戦っていくこともできる。だけれど、「武運を磨く」とはどういうことでしょうか、ということです。つまり、「武運を稽古しろ」と室鳩巣は言ったわけです。「武運を稽古する」とはどういう意味かということなのです。
皆さん、武運をどうやって稽古すると思いますか。それがいかにもわれわれ日本人の祖先、先人らしいことなのです。そもそもわれわれのような凡人たちは、室鳩巣の周りにいた人たちと同じように、次のように疑問を持つわけです。「昔から、武芸はともかく、武運は稽古してできるものではない。運は稽古してできるものではない。稽古してできるものな...