テンミニッツ・アカデミー|有識者による1話10分のオンライン講義
会員登録 テンミニッツ・アカデミーとは
社会人向け教養サービス 『テンミニッツ・アカデミー』 が、巷の様々な豆知識や真実を無料でお届けしているコラムコーナーです。
DATE/ 2018.10.17

「合理的失敗」という不条理に陥らないために

人間の限定合理性が「合理的失敗」を生む

 企業や組織の改革の難しさの一つに、「皆が問題意識をもって臨んでいる、努力もしているのになかなか目に見える成果が出ない」ということが挙げられます。そのような「失敗」の背景には、えてして「こうすればきっと、よからぬ事態になる」と分かっていながらそうせざるを得なかった。あるいは、よい方向に改革をしようと努力しているのに失敗してしまうということが、しばしばあるのです。

 経営学者、商学博士で慶應義塾大学商学部・大学院商学研究科教授の菊澤研宗氏は、「合理的に改革を進めているのに失敗する現象」を「改革の不条理」と命名しています。人間というのは理性で完璧に判断できる完全合理性と全くの無知によって過ちをおかしてしまう完全非合理性の間にある存在で、この「限定合理性」ゆえに、「合理的に失敗する」という不条理が生じてしまうのだそうです。

心理的バイアスにより起こる合理的失敗

 菊澤氏の著書『改革の不条理 日本の組織ではなぜ改悪がはびこるのか』では、合理的に失敗する理由を取引コスト理論、エージェンシー理論、所有権理論、プロスペクト理論の4つで分析しています。なかでも興味深いのは、行動経済学の観点から人間の不条理な行動を説明しようとするプロスペクト理論です。

 これは分かりやすくいえば、人の行動には心理的バイアスがかかるということ。人間の心理には、物事を認識し評価するときに参考にする心理的基準点(参照点)があります。その参照点よりプラスの状態にあれば、積極的行動でプラスの成果を得ても満足度はさほど大きくならず、もしマイナスの結果になるとその人の心理的喜びは大幅に低下します。逆に現状がマイナスの状態であれば、行動の結果ちょっとでもプラスになればその満足度は非常に大きく、多少失敗してもさほどダメージには感じません。

 この心理的バイアスが働いて、ある状態では行動を起こさずに現状維持に固執して保守的になり、現状に不満な人はリスクが高くても変革を起こそうとするのです。改革の際には、こうした人間心理も十分に把握しておくべきなのですが、なかなかそうはいかないというのが実情です。

プロスペクト理論でみる「希望の党」の衆議院選惨敗

 改革の不条理の具体例として、菊澤氏は2016年都知事選から2017年都議会選の勝利を経て、同年秋の衆議院選で惨敗した一連の流れを、プロスペクト理論から分析しています。

 最大のポイントは、都民と国民の参照点が異なっていたことです。舛添前都知事の経費に関する問題が明るみに出て、その内容にも舛添氏の答弁にも辟易としていた東京都民の心理がマイナスの状態であったため、「せめて少しでも状況が好転するのなら」と変革に期待をし、それが都知事選、都議会選で小池百合子氏と「都民ファーストの会」の躍進に結びつきました。一方、衆議院選で投票する国民心理は、アベノミクス効果で日本の経済状況がそれほど悪くはなっていなかったため、多くの国民があえての変革を求めず、現状維持の保守的な心理が働いて、票は自民党有利に動きました。

 つまり、菊澤氏は、小池氏の衆院選での失敗(希望の党の惨敗)を、「国民が現政権を支持したというよりも、たとえ現状が必ずしもよい状態ではないとしても、この現状を維持した方が国民にとって心理的に合理的という不条理な状況にあった」ことにある、としています。国政に対しても改革のメスを入れようとした小池氏ですが、プロスペクト理論をふまえるなら、国民の政権に対する見方、心理状態をもっと慎重に考えるべきだったということです。

不条理を超える鍵は「人間力」

 この不条理を超えるために、菊澤氏は制度による解決と制度に依存しない解決の2種を提言しています。どちらの解決方法も重要なのですが、不条理を超える鍵となるのは制度に依存しない解決方法である「人間力」だと菊澤氏は言います。

 行動の原因が、自分の外ではなく自分自身にあるとして、自律的行動をとれるリーダー、またそのリーダーを支える自律的メンバーが、事態の改悪の手前で予防的に動く。このことが内にも外にも開かれた理性的、合理的組織を可能にするというのです。自律的人間であれば、全体にとっては時に「空気に水をさす」ような耳の痛い意見であっても正当に発言するはずです。この啓蒙的行為が、個々人がそれぞれの理由で合理的であろうとして、結果的には全体の改革に失敗するという不条理を未然に防ぐのです。

 「よかれと思ってやったことが失敗を招く」という不条理に陥らないためには、自己と他者の関係を客観的に観察し、忖度、根回し、腹芸といった日本の「お家芸」に走らない意思が必要となってくるのではないでしょうか。

<参考文献>
『改革の不条理』(菊澤研宗著、朝日新聞出版)
https://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=20033

<関連サイト>
慶應義塾大学商学部 菊澤研宗研究会
http://kikuzawazemi.wixsite.com/keio

菊澤研宗氏のブログ
http://kikuzawa.cocolog-nifty.com/blog/

~最後までコラムを読んでくれた方へ~
「学ぶことが楽しい」方には 『テンミニッツTV』 がオススメです。
明日すぐには使えないかもしれないけど、10年後も役に立つ“大人の教養”を 5,600本以上。 『テンミニッツ・アカデミー』 で人気の教養講義をご紹介します。
1

学力喪失と「人間の理解」の謎…今井むつみ先生に聞く

学力喪失と「人間の理解」の謎…今井むつみ先生に聞く

編集部ラジオ2025(24)「理解する」とはどういうこと?

今井むつみ先生が2024年秋に発刊された岩波新書『学力喪失――認知科学による回復への道筋』は、とても話題になった一冊です。今回、テンミニッツ・アカデミーでは、本書の内容について著者の今井先生にわかりやすくお話しいただ...
収録日:2025/09/29
追加日:2025/10/16
2

なぜ算数が苦手な子どもが多いのか?学力喪失の真相に迫る

なぜ算数が苦手な子どもが多いのか?学力喪失の真相に迫る

学力喪失の危機~言語習得と理解の本質(1)数が理解できない子どもたち

たかが「1」、されど「1」――今、数の意味が理解できない子どもがたくさんいるという。そもそも私たちは、「1」という概念を、いつ、どのように理解していったのか。あらためて考え出すと不思議な、言葉という抽象概念の習得プロ...
収録日:2025/05/12
追加日:2025/10/06
今井むつみ
一般社団法人今井むつみ教育研究所代表理事 慶應義塾大学名誉教授
3

ショパン…ピアノのことを知り尽くした作曲家の波乱の人生

ショパン…ピアノのことを知り尽くした作曲家の波乱の人生

ショパンの音楽とポーランド(1)ショパンの生涯

ピアニスト江崎昌子氏が、ピアノ演奏を交えつつ「ショパンの音楽とポーランド」を紹介する連続シリーズ。第1話では、すべてのピアニストにとって「特別な作曲家」と言われる39年のショパンの生涯を駆け足で紹介する。1810年に生...
収録日:2022/10/13
追加日:2023/03/16
江崎昌子
洗足学園音楽大学・大学院教授 日本ショパン協会理事
4

最近の話題は宇宙生命学…生命の起源に迫る可能性

最近の話題は宇宙生命学…生命の起源に迫る可能性

未来を知るための宇宙開発の歴史(13)発展する宇宙空間利用と進化する技術

技術の発達・発展により、宇宙空間を利用したさまざまなサービスが考え出されている。人間の環境を便利にするものであり、また攻撃技術にもつながるものであるが、さまざまな可能性を秘めている。さらに宇宙空間の利用は、天文...
収録日:2024/11/14
追加日:2025/10/19
川口淳一郎
宇宙工学者 工学博士
5

中国でクーデターは起こるのか?その可能性と時期を問う

中国でクーデターは起こるのか?その可能性と時期を問う

クーデターの条件~台湾を事例に考える(6)クーデターは「ラストリゾート」か

近年、アフリカで起こったクーデターは、イスラム過激派の台頭だけではその要因を説明できない。ではクーデターはなぜ起こるのか。また、台湾よりも中国のほうがクーデターが起こる可能性はないのか。クーデターは本当に「ラス...
収録日:2025/07/23
追加日:2025/10/18
上杉勇司
早稲田大学国際教養学部・国際コミュニケーション研究科教授 沖縄平和協力センター副理事長