●もし私が真珠湾奇襲攻撃前の山本五十六だったら
こんにちは。海上自衛隊幹部学校長の山下です。本日は意思決定プロセスの第二回目となります。今回は「もし私が山本五十六だったら」との視点に立って、昭和16(1941)年12月8日に真珠湾奇襲作戦を実行した連合艦隊司令長官・山本五十六の歴史上重要な決断について、皆さんと一緒に考えてみたいと思います。それでは話を進めてまいります。
まずは軍事における指揮官の一般的な意思決定プロセスについてのおさらいから始めます。まず上級指揮官から任務を与えられたならば、最初の「使命の分析」の段階で、自分は何をなすべきかについて検討します。次に「情勢の分析及び彼我方策の見積り」は、変化する情勢を分析し、敵の方策を見積もります。「彼我方策の対抗・評価」の段階では、敵の方策と我の方策を対抗させて、最終的に「意思決定」への段階で、我の最善の方策を決定します。
特に「彼我方策の対抗・評価」では、スライドのようなマトリックスを作成し分析します。左側の赤い部分に敵の方策を列挙し、次に上の青い部分に我の方策を列挙します。そして、双方が対抗した場合の予想結果を、マトリックスの交差部分に記録します。この予想結果を受けて、スライド下部に示す、スィータビリティー・フィージビリティー・アクセプタビリティーの観点で我の方策を比較検討します。スィータビリティーとは、我の方策が使命達成にどの程度役に立つか。フィージビリティーは我の方策が実施できるか、またはその難易はどうか。アクセプタビリティーとは、我の方策の実施に際して生じる負担や損失に耐えられるかということです。これらについて総合評価し、最終的に最善の方策を選択し、意思決定します。
●開戦以前における連合艦隊の基本戦略は「待ちぶせ」だった
それでは山本五十六が太平洋戦争劈頭(へきとう)の真珠湾奇襲作戦を決断したことについて、この意思決定プロセスを適用し、その判断について考えてみましょう。
戦前の昭和11(1936)年に改定された「帝国国防方針」は、「東洋に在る敵を撃滅し其の活動根拠を覆し、かつ本国方面より来攻する敵艦隊の主力を撃滅するを以て初期の目的とする」とされています。「用兵綱領」には、「米艦隊の来攻に先立ち邀撃(ようげき)準備を整え、米艦隊が来攻する場合はこれをわが本土近海に邀撃撃滅し、太平洋の制海権を確保し、その後敵を屈服させる手段を採る」となっていました。
翌年7月には、盧溝橋事件により日中戦争が勃発し、それ以来日本は、米英蘭との戦争状態に突入していくことになります。また昭和16(1941)年の年度作戦計画では、在東洋敵艦隊を撃滅するとともに、陸軍と協力してグアムおよびルソン島を攻略する第一段作戦と、敵主力艦隊を待って撃滅する第二段作戦という二つの作戦が構想されていました。特に第二段作戦を邀撃艦隊決戦とか、単に邀撃作戦と称していました。
以上のことから、開戦以前の連合艦隊は、その作戦要領において、第一段作戦で南方作戦を支援するとともに、第二段作戦ではすでに米主力艦隊が西太平洋に来攻するものと見積もって、作戦計画を立てていました。特に敵主力艦隊が、ハワイ方面から来攻してくることを想定して、日本海軍は邀撃作戦という待ちぶせによる基本戦略を、明治40(1907)年以来30年以上の長期にわたり堅持していました。
●邀撃作戦は「無難」、奇襲作戦は「ハイリスク・ハイリターン」
この流れの中で、山本連合艦隊司令長官が、当時の状況についてどのように判断していたかを推察してみましょう。まず連合艦隊の使命を分析してみます。連合艦隊の使命については、「大海指第一号」から推察できます。「大海指第一号」とは、昭和16(1941)年、対米英蘭との戦争を開始する際に、天皇陛下の命令を受けて、大本営海軍部が連合艦隊司令長官に示した命令です。その別冊には作戦方針として、「在東洋敵艦隊及び航空兵力を撃破し、南方要域を占領確保して持久不敗の態勢を確立すると共に敵艦隊を撃滅し終極に於いて敵の戦意を破摧(はさい)するにあり」と示されています。この命令は、先に示した年度作戦計画の第一段作戦と第二段作戦の同様の作戦から構成されていますが、この二つの作戦が段階ではなく、並列して示されていました。
ここに連合艦隊に付与された任務は、二つあります。一つ目は在東洋敵艦隊及び航空兵力の撃破、開戦当初に行われたマレー沖海戦などが事例として挙げられます。本日は、もう一つの任務である、敵艦隊の撃滅の方について考えます。敵の戦意を破摧するため、東方から敵艦隊をいかに撃滅するか。山本長官の意思決定をシミュレーションしてみます。
まず、従来から考えられていた邀撃作戦がいいのか、奇襲作...